諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

(マジ)今までで一番マジ

 まずはじめに、今ここで書くことは今の自分の考えでしかなくて、一年後、二年後、なんなら数分後の自分でさえ、同じ考えを持っているとは限らないことを示しておく。

 つぎに、いつものことだが、思ったことを思った順に、というのは流石に嘘で、もう少し気にしているがほとんどそんなテンションで書いているから、ぐちゃぐちゃだと思う。俺の心はいつもぐちゃぐちゃだから、まあそんなものかもしれない。

 あとすごく長い。めちゃめちゃ長い。なのに詩的な要素とか、ストーリー性とか面白みがひとつもなく、ただ考えを書いたまでで、何回も同じことを言っており、それに気づいているのに直す気も起こらず投稿した。でも読んでくれたらありがたいと思う。もしかしたらのちのち書き直すかもしれない。

 


 私は今、自分の中では一応、ノンバイナリーという立場をとっているつもりだ。女でも男でもあるような女でも男でもないような何でもないような感じがしている。そんな雰囲気をTwitterInstagramで小出しにしてきた。

 承知してほしいという思いはありつつも、今自分をいろいろな形で認識しているフォロワーらに「自分をこう扱ってくれ」と強く訴えたいわけではなかったし、強く訴えるほどの自信もなかったから(これらは今も変わらない)、小出しに、言うなれば匂わせのようなことをしてきた。

 わざわざこんなことを書くまで、フォロワーらがどのくらい私の匂わせを意識していたのかは、こちらにはわからないところだ。私としてはそんなつもりもなかったが、もしかしたら傍目にはごく穏やかな香りで、とても知ってほしそうには見えていなかったかもしれない。私からすれば毎回の匂わせは一世一代の、と意気込んでやっていることだったから、決してそんなつもりはなかったけれど。

 表明する上ではわかりやすいからノンバイナリーという言葉を使っているものの、それが自分にとって適切なのかはよくわからない。あえて言葉を当てはめるなら一番近いのだろうが、ノンバイナリーという言葉を自分事であるとも、それほど感じない。そもそもこの言葉自体ごく限定的な意味で使われるわけでもなく、あまり親近感を感じる言葉ではないのだろうか。

 もっと適する言葉を探そうにも、そもそも自分がどういう状態なのか、はっきりとはわかっていない。そういうふらふらした自分が、他人に説明をするときに使う言葉として「ノンバイナリー」がそこそこ便利ということだ。でもそれより完璧なカテゴリを求めようとも思わない。ただまあそうすると、自分のことを話すには難しいなといつもいつも考え込んでいる。

 今回は文字数のことも考えて、ノンバイナリーという言葉を使う。

 


 はっきり言って、私の体は、なんて言うのが正しいのかわからないが、女性の体だ。小学校、中学校生活は女性のつもりで送ってきた。

 その過程で、いつだったか、あー自分って好きになるの異性だけじゃないかもなあと思ったタイミングはあったのだが、性的指向は自分の性自認を疑う理由にはならないから、そのときは改めて考えたりはしなかった。

 今考えてみるとその当時も、他人や社会からいわゆる女性性を求められはしても、自発的に女でありたいと思ったことはなかったような気がする。

 もともと自分は、いわゆる女性的と形容されるタイプではなかったとも思う。それでも女性は女性らしい方がよいというのはよく聞いていた話で、それにそぐわない自分は、自虐の対象でもあった。

 諭吉の名でTwitterアカウントを持ってからも、「もうすぐJKになるのに」などと投稿したことがある。それは若い女性である自分が(いわゆる)若い女性らしくないことに対する自虐だ。それにプラスして、平然と自虐をすることによって新しい立ち位置を築くという、安心するための行為だった。それは逆に言えば、自分を、女として生きる道に縛りつけることにもなる行いだったと思う。

 無論、「いわゆる女性的」でないことが女性でないことの根拠にはならないから、当時の自分が自分の性別を疑わなかったことが不自然かというとそうではない。ただ、選択肢を知っていたら、今の自分のような考え方になるのはもう少し早かったかもしれないと思う。必ずしも早ければよいとは思わないが。

 女性として生きてはいたけれど、なんらかの説明的な要素の中にも、自分の気持ちの中にも、自分が女である証拠を見つけたことはなかったように思える。けれどそれこそが自認の純粋な証拠であると捉えていた。(今でも、性自認にはそういった側面はあるように思える。理由をもって性別を判断するわけではないという側面。正直よくわからないけれど……。)

 ただ、そのときの私が女性だったのは、自分が女性である証拠は見つけられなかったけれど、かと言って、男性である証拠が見つかるわけでもなかったからだ。当時の私にとって、性別は女か男かしかなかった。

 ざっくりしているけれど、それほど疑問を持たなかった。私は女か男か以外の選択肢(選択したくてするばかりではないし、選択というより認識かもしれない)があることすら知らなかったのだから、疑問を持ちようもなかった。自虐こそすれど、自分が女性であること自体は、まあそういうものなのだろうと思っていた。(実際、人によって、そういうこともあるだろうとも思う。私もこの先はまだわからないし!)

 タイミングも、経緯も、あまりはっきりとは覚えていないが、やがて私は自分のことを、女でも男でもあるような、女でも男でもないような気がし始める。

 なにかきっかけがあったとしたら、自分の性的指向について(は割と普段からぐちぐち考えることが多かった)考えるうちに、性別にありうる形、つまり選択肢のことも、自然に知ることになっただけの話じゃないかと思う。

 それまで知らなかっただけで、自分の状態を心に収める上での解釈のやり方はたくさんあった。

 それを知った瞬間から私のスタンスが変わったということはなくて、はじめは知識として、頭の中にあり続けた。知識から実感に変わるきっかけ、やっぱりここの経緯をどうも覚えていないけれど、自分が性別の証拠を見つけられなかったことは、そのまま、見つけられなかったまま、心にしまえばよいのかもしれないと思うようになった。

 無理にひとつを選ばなくてもよいことを、もっと言えば、生活の中で、理由もしっくりくる感覚もなく女を選ばされることへの不安を、感じるようになった。

 今の私は男でも女でもあるのかもしれないし、男や女ではない何かなのかもしれないし、男でも女でも他の何かでもないのかもしれないと思う。そこを掘り下げる気になったりならなかったりする。この通り、結局あまりはっきりしていないのだが、はっきりしなくても大丈夫だろうと思うようになった。

 この先、私は女だ、私は男だ、と言い切りたくなることがあるかもしれないけれど、今無理して決めないことで、いつでもどれでも選べたらいいなと思う。

 そう思うようになってからは、言動も変わったと思う。自分自身の振る舞い以外にも、たとえば取材記事などで、自分を指す三人称は名前にしてもらうようになったりした。

 というようなのが、ざっくりした流れだ。今の状態を知ってほしいだけならこれを書く必要はなかったのだが、ちょっと、整理と記録をしてみました。

 


 女性性や男性性ということに関して、私はとても無知だ。

 さきほども書いたが、小学校、中学校生活は完全に女性のつもりで送ってきた。となれば、(少なくとも表向きが)女性同士のコミュニティに属する時間の方が長くなる。だから、今の自分の持つさまざまなことに対する考え方は、女性同士のコミュニティで育ってきた人と一致しやすいのかもしれないなと思う。つまり私には社会的な女性性が多くあるということなのかもしれないが、それってなんだろうとも思う。よくわかっていない。

 きっと自分の中には女性性も男性性も存在していて、しかし女性性や男性性は何がもとになっているのかわからず、社会的な定義以外に何かあるのか、社会的なものでしかないのかもよくわからない。

 女性にも男性にも女性性と男性性の両方があっておかしいことはなくて、けれどそうしたら女性性が女性性と呼ばれる理由や男性性が男性性と呼ばれる理由も私は知らないのだと気づいて、本当に知らないことばっかりだ。勉強しないといけない。

 


 正直、私はいつもいつもこういうことばかり考えている。他人から見られるたびに考え直して、女性として扱われるたびに結局のところ自分はなんなんだろう、そしてどういう立場を取るべきなんだろうと、そんなことばかり考えている。良くも悪くもだ。新しい知識も気持ちもないまま一人で考えまくったところで、何も変わらないはずだが。

 (ありがたいことに、)自分からは把握し得ない他者からも自分の存在を認識されることが増えてからは、さらによく考えるようになった。

 私はいろんな人がいろんなふうに私をみて、私のことを勝手に想像したり解釈したりしてくれたらよいと思っている。なにが本当なのかは関係なく、他人の思う私の像がいろんなふうに広がれば嬉しいと思う。

 だからたまに混乱する。別に、これまで通り自分が女性だと思われていたところで、大抵の場所では問題が起こらないようにも思えるからだ。

 たとえば、私を女性として扱う他者が私に対し、異常に女性性を求めたり、「女性たるもの」と行動を制限したとすればそれは、私が女性であるかそうでないかの枠を超えた問題であり、実際には女性でないのならば解決する、というものでもない。しかし、もしも単に性別に関して勘違いが起こっていて、ただ自分を女性と呼ばれたとしてそれによって、私は何を不安に思うのだろうか。

 たしかに不安に思っているのだ。けれど、いったい何が不安なのか、わからない。真偽関係なく、いかようにも見られたいのではなかったのか?

 逆に、「いかようにも見られたい」からこそ、女性であることを不安に思っているのかもしれないと思うこともある。それこそ、真偽関係なくいかようにも見られたいからこそ、他者が私をいろいろなふうに見るためにその選択肢を提案しているだけで、真には女なのかも……と思うことがある。これについては今も考えている。よくわからないと思う。けれど、先天的か後天的かはともかく、自分の性別がひとつに決まっていることにしっくりこない気持ちを認識してしまったわけで、漠然と女性だった頃に戻ることはなかった。戻りたいと思わなかった。

 今回こんな文章を書いてみてはいるものの、今後私が私を女性扱いする人に出会っても、わざわざ「私はノンバイナリーなんです」とは言わないんじゃないかと思う。私を女性と呼ぶツイートを見つけては訂正して回らなければならないほどの緊急性も、私は感じていないと思う。けれど、私はこれを書くことをずっと考えていた。結果、書いたのは今だったけれど、ずっと考えていた。

 ではどうして書きたかったのか。はじめに書いた通り、承知してほしかったのかもしれない。理解するとか認める(変な言い方だ)とかは一旦置いておいて、とりあえず承知をしてほしいと思った。じゃあどうして承知してほしいんだろう。いかようにも見られたいんじゃなかったのか。

 フォロワーのみんなが私の性別をどう認識しているかなんて、アンケートを取ったわけでもないから、わからない。きっと色々だろう。以前から察していた人も、これを読んではじめて知った人もいるだろう。諭吉の性別なんか考えたこともねえという人も、考えたこともないしこれからも考えないという人もいるかもしれない。

 私を取り巻くすべての人がこの文章を読むわけじゃないこともわかっている。だからきっとこれからも、一部の人は私をノンバイナリーだと思うだろうし、一部の人は私を女だと思うかもしれない。

 ……と、書いていて今、まあそれはそれでいいのか、と思った。知ってほしい気持ちはある。でも、とりあえず文章にしてしまいたかっただけなのかもしれない。それですっきりしたかったわけだ。私は何事も文章にしないとダメなタイプだし。そのあとのことはそのあと考える。そういうことらしい。なんだこのまとめ方は。

 だからとりあえずこれをしたためて、それでそのあと女性と呼ばれたとして、まあそれはそれなのかもしれない。けれどそのとき、私の気持ちは、何も書いていなかった頃とは違う。ひとつは、その場で訂正しないことで、嘘をついている気持ちになるかもしれない。ひとつは、既に気持ちを文章として心に収めている安心感を思い出すかもしれない。また、良くも悪くもだ。

 


 それがどこから出てきたものなのかは置いておいて、世の中には女らしさや男らしさといった認識が存在している。そういった基準で見たとき、自分にはどちらの要素が多いのか、それは自分ではわからない。しかし少なくとも自分は、十年以上を女として生活してきたし、今現在も女の体を持っている。その事実はしばしば私を不安にさせる。

 女の体は、他人が私を女性と判断する理由になり得るし、そして、私自身がフラットでいたいと願う気持ちに水を差す。

 すべての行動に女の体を使わなければいけない分、仕草や口調など、まだ簡単に変えられそうな部分をどうにかしてみようと思うことがある。体の構造という点で既に女の方に振れている針をゼロに戻すために、あえて世間的に男らしいとされている要素を追加してみようと思うことがある。けれどそのときにまた、不安になる。

 自分は男性性という概念がどこから出てきたものなのか、実際にはどう存在すべきものなのかを知らないのに、どうしてそれを利用できるのか。他人から思い通りに認識されるためだったら、普段の自分が不安に思う概念も利用するのか。いつもの私だったら、女性らしさや男性らしさのことをなるべく考えないようにしているのに。

 ノンバイナリーと言いつつそこを比べることがおかしな話だとは思うけれど、今の自分は女性扱いされるよりは男性扱いされる方が安心する。そうすることで体がゼロになると思っているのだろう。

 あっだめだ面倒くさい……この辺はまた今度考えます。

 間違った知識や考えは知りたいので、ぜひおしえてください。

 


 ということで、まあ、女性扱いしても大丈夫だと思います。実際私の中にいわゆる女性性は存在しているのだろうし、女性扱いされてなにか事件が起こるわけではありません。男性扱いも同様です。私のことをどっちでもありどっちでもないというふうに認識する方はそのままそうしてくれた方が、こちらはしっくりかもしれません。

 性別のことに限らず、この世の全員は、自分が他人からどう認識されるかを選べません。それをポジティブに捉えたのが私のよく言う「いかようにも見られたい」という考え方で、本当に、いかようにも見られたいと思っています。先ほども書きましたが、性別についてもそうなのだと思います。書いているうちに、上記で悩んでいたことについて今のところの答えが出た気がするので以下に記します。

 性別についての「いかようにも見られたい」の「いかよう」とは、真偽関係なくあり得るすべての性別で見られたいということです。しかしこれまでの私の性別の見られ方は、「ノンバイナリー」か「女」かの二択であったと予想します。(便宜上こう書きましたが、ノンバイナリーを「一択」と数えるのは適切でないと思います。)私の匂わせを意識していた人の目には前者、私の以前までの生き方(と言っても「以前」はそこそこ遡るので、最近私を知った人はここを認識しないと思います)や身体的特徴という事実から考えていた人の目には後者で映っていたと思います。(他人の性別はその人が自称しない限り判断できないと考えて、私の性別を判断していなかった人もいたと思います。)

 「いかようにも見られたい」から今回の文章を書いたという側面はたしかにありました。体が女性であることを根拠に女性と判断されてきたことに関して、それ以外の見方を提案をしようとしたのだと思います。「ノンバイナリー」や「女性」というのは現在や過去における単なる事実で、「いかようにも見られる」にはそれ以外も含まれなければなりません。そこに事実は関係ありません。

 


 私は、結局のところ、ノンバイナリーだと思ってもらわなくてもよいかもしれないと感じているのだと思います。気持ちを知ってほしいというのは、必ずしも事実を知ってほしいということではありません。ただ、私の中の女性以外の可能性を知らしめたかったのです。それは事実存在しているし、もしそうでなくても、その方がきっと楽になると思いました。

 正直、この文章の中だけでも、矛盾が書いてあるんじゃないかと思います。書きながらわけがわからなくなったので、きっとおかしなところがあると思います。とにかく、私は自分のことを女でも男でもあるし女でも男でもないし何でもないし全部だと認識します。私が私をそう認識するのと同じように、みんなも私を好きに認識するものなんだろうと思います。

 ただ、可能性についてみんなで考えていたいと思いました。だから書いたんだと思います。

 


2021年5月24日

アイドルと大富豪について

 とあるバラエティ番組を見ていた。「アイドル以外の仕事をしたことがあるか」という司会者の問いに「アイドルしかやったことがない」「アイドル一筋」と答えるアイドルら、その甘美な響きにどきどきしてほうとため息をつきたい気持ちになった。それは気持ちだけで、実際には叫んでいた。「"アイドルしかやったことない"て!!!!!」。

 と同時に、自分はもう"アイドルしかやったことがない人間"にはなれないのだという事実に絶望した。

 アイドルにはなるかもしれない。可能性ということだけで言えば、アイドル含め、何にだって可能性がある。会社員になることも税理士になることも消防士になることもハウスキーパーになることもトリマーになることも、可能性はある。全然綺麗事でもなんでもなく、可能性だけは無限だ。しかし自分が今こうしてひとりで音楽をやったり、他人に音楽を提供したりしている時点で既に、"アイドルしかやったことがない人間"になる道は閉ざされた。戻ろうとすると、急に可能性がゼロになる。考えるまでもなく当然のことなのに、わかると虚しくなる。

 なぜだろうか?不思議だ。"シンガーソングライター(自分は、自分からシンガーソングライターを名乗ることはないのだが、"音楽家"だと行動が広すぎてもはやアイドルも含まれるかもしれないので、ここでは狭めた表現を使う)しかやったことがない人間"にそれ特有の魅力を感じることはないのに、"アイドルしかやったことがない人間"となれば途端に……途端になんだろうか。何がかはわからないが、かなりよい感じなのだ。

 自分の"アイドルという職業"への感情は屈折しすぎてもはや真っ直ぐに見えるくらいなので、自分でもよくわからない。わからないが。

 "アイドルしかやったことがない素敵なアイドル"とは……。スティックシュガーを何本分も溶かした甘いカプチーノに白いレース生地を突っ込んで、取り出して、その糸の集合が吸い上げたカプチーノに口付けて吸って、そうしてちょっとずつ体内に取り込むくらい、贅沢でかわいい感じがする。(贅沢というのは我々(我々?)アイドルを見る側にとってのであって、アイドルがアイドル以外をやったことがないのが贅沢なのではありません。)

 


 人気お笑いコンビの漫才のボケの言い分、「俺はかの有名な映画を観たことがない。お前は観たことがある。俺はいつでも観ることができるから、"観たことがある"状態にもなることができる。しかしお前はもう観てしまったから、"観たことがない人間"にはなれない。そういった意味で、観たことのない方により価値がある。」というような内容(だいたいこんなの、くらいですが)を思い出した。

 この漫才を初めて聴いた時にも、大笑いしつつ、どこかしんみり聴いてしまう部分があったのは、そういった不可逆に恐れをなしていたということなのかもしれない。

 


 それでも基本的に、知ることはめちゃくちゃいいことだ。

 みんなが面白いと思っているものの中で自分がまだ知らないもの。自分は、世の中の大半のものは、知りさえすれば好きになるのだと思っている節がある。

 好き嫌いはあるから、実際には全部が全部ということはないのだけれど、ドラマ、漫画、映画、アニメ、音楽、それらの一部は、現にとんでもない数の人々を熱狂させているのだから、たまたま自分にははまらないという可能性の方が低いのじゃないか。一番大好きなものにはならなくとも、大抵は好きになれるのではないか。まだ知らないだけで。と、思うことがある。

 だからこそ逆に、全部知って全部好きになるのが怖い。

 好きになるのは極端に楽しいが、極端に面倒なときがある。いろんなものを好きでいるのは疲れる。けれど豊かだ。しかし疲れる。それに、やっぱり、知らない時には戻れないのだから、知らない方が得をすることがあるのかもしれないと思うと、先の不可逆のことを考えて、踏み出す気を失う。

 


 俺はいまだに大富豪のルールを知らない。家族や、好きなアイドルたちが楽しそう〜にやってるのを見て、どんなゲームなんだろうかと気になっても、まだ知らないでいる。

https://twitter.com/kasaku_men/status/1327218670141984768?s=21

24時間以上残ります

おはようございます。諭吉佳作/menです。

 


俺はちょくちょくInstagramの質問を募集できる機能を利用しています。

 


はじめのころは誰ぞがやってるのを見てへーそういうもんかねなんて思って、六つの質問を収めたスクリーンショットに、それぞれの質問に対応する短い文章を回答として書いて、ストーリーズに載せていた。

今はなぜか機能通りに、一つ一つの質問をとりあげて相手側に通知がいくような方法で回答をしている。普通逆だと思うんだけどね。慣れてきたからこそ、機能として想定されている方法とは違う方法を見つけて実践する、って方が自然なんですけど。

それでも最初も今も、質問募集の機能を利用することの目的、目的というとちょっとひんやりし過ぎている、意義、これも冷たいか、良さですね。質問募集の機能のどこに良さを感じているかというのは変わらなくて、その中の一つに、他人からの質問に答えることで自分のことをはっきりさせられるというのがある。自分のスタンスとかその理由とか。まあもちろんそれだけではないんだけど。

考えたことなかったようなことを、わざわざ一に立ち返って考えることになったりするのがありがたい。まあ俺はそういう提起が自分の中から生まれる頻度が高い方だとは思うんだけど、それでもたとえば最近「好きな寿司は何か」なんて答えたけど、普段は半分自動的みたいに食べたいもの食べてるってだけで、あんまり考えたことなかったりする。や、まあこれはちょっと無理やり言いました。好きな寿司を一に立ち帰って考えることはないです。

聞かれてもいないのに補足を長文でしたりするのも、もしかしたら質問者の方からしたら恐怖を感じるのかもしれない(もしここにいらしたら伝えます、いつもすみません)のだが、俺にとっては俺のことをゆっくり考える時間というか、そしてそれを他人の目に触れてもよいくらい具体的な文章にすることで、より自分の中に確かなものとして残る、そういう実感が得られるわけですね。やった!

 


ところでなんでこんな話をし始めたのかというと、Instagramでの自分の振る舞いとはてなブログでの自分の振る舞いがそこそこ異なっているということについて、さっき初めて考えたからです。

振る舞いというか、シンプルに文章の書き方です。自分は文章を書くのが好きで、そうでなきゃさっき言ったみたいな、書くことで考えをまとめるなんてことしないと思うんですけど。それにしても、Instagramでの文章ははてなブログでの文章とは大きく違っている。

こんな話をすればお気づきかもしれないが、今日の俺はちょっと違う。今ここで書いているのはInstagramのストーリーズで俺が書きそうな文体で書いたはてなブログです。自分としてはそのつもりです。けどわりと自信がない。

Instagramのストーリーズでの俺の文章ってのは、まず「ら」行や「い」を省いた言葉を使う。「けれど」は「けど」になるし「していない」は「してない」。全部が全部ではないけど、こういうのを結構使う。そういう省いた言葉が今の時代において間違った言葉使いとされるのかされないのかはよく議論になるところだがそれは置いておいて、少なくともはてなブログで書いているときの俺は、絶対に省かない。もうこれは決めてるから、わざとなんらかの効果を狙っているんでもない限りは使わないようにしている。はず。確認してないのでわからないですけど。あとは「〇〇と言った」が「〇〇って言った」になるのとかもよくやる。

敬体と常体が入り混じるのはどちらも同じかもしれない。はてなブログの方でもちょくちょくあると思う。これが結構ブログっぽくていいよななんて思ってるんですよね。

TwitterとかInstagramとかはてなブログとかもしくはどこかの雑誌に寄稿するとか、載る場所によって書く文章が違うなんて当然のことなんだけど、どこでそのスイッチが切り替わるのかということを考えるとわりと妙だと思う。考えてやっていることなのかそうでないのかもわからないが、どちらを書いている時が自然だとか楽だとかそういうのはないと思う。

ただひとつぼんやりと決め手になっている気がするのは、ブログの文章は範囲選択やコピペができる、つまり入力された文字がずっと入力された文字として存在し続けるのだが、Instagramのストーリーズの文章ってのは入力して完了した瞬間に絵の中に溶け込んでしまうから、文字の自覚が薄い気がする。質問への回答でしかないという程度の自覚なのかもな〜と今思った。そうだ、質問されてそれに答えるんだから、そもそも人間同士なわけだ。そこが一番大きいでしょうね、勝手にぶつぶつ言ってるブログとちょっと違うのは。

InstagramTwitterで書いてる時って、わざわざ「。」をつけるのが気持ち悪いときがあって、スペースを代わりにすることが多いんだよね さすがにここでそれをやっちゃうと読みづらすぎるからやめました やろうと思ったんですけど

こういう再現のことを俺は擬態って呼ぶことがあるのだが、俺はTwitterでの振る舞いが一番わかりやす擬態かもしれないです。擬態と言っても擬態だから嘘とかそれでも本当とかそういうことは問題じゃなくて、ただ、ただなんでしょうね。俺はずっと矛盾してる気がするけど矛盾を許してることに安心してると思います。なんの話してたっけね。

書いてるうちによくわかんなくなっちゃったのでまた考えたいですね。

 


ばいば〜い✋

2019/men

 カーーーッ!来るはずのない年が来てしまった!と何故か思わせる2020年だ。20が二つ重なっているという見た目のポップさと、大規模な催しを予定しているが故に何かと言えば目印にされてきたこととが、何か不自然な感じを与え、とにかく不確定な感じを醸している。

 かと思えば、実際2020年に生きてみるとなんてことはない。当然だ。なんてことはないなんてことはわかっていた。でも思っていた以上になんてことはない。まだ序盤だから、「なんてことがある」はずはないのだ。わかっていても、書類に日付を書いた時、カレンダーを見た時、あらゆるところで2020が今だと思い出すたび、奥歯が一つ増えたような違和感がある。「ニイゼロニイゼロ」?二千二十年だろうが!このなんともキャッチーな数字に、僕の中身は追いついているんでしょうか……。


 ↑と書いたのが年明けすぐで、今はもう2月も後半である。2020にまだ慣れていないどころか、2019年14月だと思っている。

 別に2020のせいで、ということはないが、上に記したときよりも世の中と私が混乱している。ような気がする。混乱というか、もうこれは個人的な考え方とかを全く抜きにして、単純に流行病が怖くて、連日テレビが現状と予防法を報じ、別にそれがいたずらに不安を煽るとかそういうのでもなく、ただただ「病気はなるべくしたくないね」という話だ。みんな基本的に病気はなるべくしたくないのである。健康が一番。


 ところで、昨年はかなり大変な振り返りをした。2018年中に投稿した音楽と出演したライブすべてについて、三記事に渡って感想を書いた。2019年についても軽く記しておこうと思うのだが、今回はとりあえずリリースについて書いておく。

 ただご存知の通り、わたしの今年の単独リリースは「プロトタイプ-11」のみである。リリースなんてない!これは事実だが、事実として観測する以上に追及することはせず、コラボ曲や提供曲を並べておくこととする。


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⚫︎2019.1.3

運動 - abelest + 諭吉佳作/men

https://soundcloud.com/maltine-record/undou

マルチネレコーズよりリリースされた abelest さんのEP、「健康」に収録された曲。(各種音楽配信サービスからも配信しています。)


⚫︎2019.1.19

プロトタイプ-11

https://soundcloud.com/yukichikasaku/p-11/s-mJ4H1

わたしにも読みがわからない、かわいいタイトルの曲。わたしこれ好き。


⚫︎2019.6.26

形而上学的、魔法 - でんぱ組.inc

https://youtu.be/zFAgG0HIvWo

オイ!どうしてわたしがでんぱ組.incさんに曲を……!?!?!?!?と、今でも余裕で驚けるのですが、どうですか?(どうですか?)

作詞作曲をわたしが担当させていただき、編曲は KanadeYUK さんが担当されています。

もちろんCDも売っているしMVもあるしもう、どこでも聴けます。


⚫︎2019.10.1

動く物の園 - abelest & 諭吉佳作/men

https://linkco.re/UFpUaFzg

マルチネレコーズ『CUBE』出演に向けてつくった、「健康」の続編的な曲。ばかでかい空間を感じます。映像もございます。


⚫︎2019.10.4

むげん・ (with 諭吉佳作/men) - 崎山蒼志

https://smej.lnk.to/zzAG6

崎山蒼志 さんと、詞曲ごちゃごちゃにつくった曲。編曲は、ベース以外の打ち込みはわたしで、崎山さんはギターを弾きつつベースの打ち込みをされています。

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 コラボや提供、新しいことを体験できた年だった。一人でこねこねやるのも楽しいのですが、他人とのやりとりが重要になってくる制作も本当に楽しいし、感動するタイミングが多いです。

 一人のことに関して言えば、2月からはライブに小銭やMacBook(ちなみにAirです)を導入(それまではPAの方にCDを渡していた)、そして10月あたりからはLogic Pro Xを使い始めるという大事件。それまで使っていたiPhoneGarageBandには大変お世話になったため、丁重に謝辞を述べ、そして今現在ではまったく触っていない。これがなかなか、本当に大事件である。

 「iPhoneGarageBandでつくっています」と声高に言い張るつもりもなかったが、もちろん事実だから尋ねられればそう答えたし、iPhoneで音楽をつくるその手軽さや現代的とも言えるスタイルから興味を持ってもらうことも多かった。実際、そういったテーマのテレビ番組にも取り上げてもらった。そのわたしが、普通にMacBookを使い始めることは、(これはある意味、自意識過剰であると言えるが)自分の価値を自ら手放すようなことかもしれないと思っていた。「もしかしてわたしは、現代の”手軽な音楽”の象徴なのか?」というところにまで思考が行ってしまったが、まあそんなはずはなく、そもそもわたしはそんな目印をつけてもらえるほど有名じゃない!有名になるぞ〜〜、俺って有名になりたいんだろうか!よくわからない。


今年もよろしくお願いします。もう2月22日よ🐱(って書いたら日付が変わってしまった。)

諭吉佳作/menの本名は?調べてみました

 私は鈴木みゆという名前を本名に持っています。

 何故このタイミングで急に本名を書いてしまうのか。(これでもしも、本当はみんな知っていたが気を使って黙っていた、とかだったら怖い。)

 もちろん私は私を養ってくださっている大人にきちんと相談し、自分の思いを熱く(熱く?)伝えた。その上で書いた。

 熱い思いの内容を以下に。

 


 「鈴木みゆ」の名を、既に知っていた人がいるだろう。

 私が初めてライブを行ったのは「神谷宥希枝の独立宣言 ザ☆オーディションvol.10」というオーディション(vol.8のグランプリストは崎山蒼志 先生)の本選があった2018年3月であると設定している。

 私はそのオーディションに「鈴木みゆ」の名で参加した。それほど覚悟を持って参加したわけではなかったのに、一丁前に新しい名前をつけてしまうなんてことが恥ずかしいと感じられたからだった(このときの自分は名前に対しての考え方が今とは違う)。

 だからまず、そのオーディションを見ていた人は当然、私が鈴木であることを知っている。加えて、その話を又聞きした人や、その時期について残っている僅かな情報を掻き集めた人、掻き集めた人が書いたまとめ記事を読んだ人などは、私の名前を一つ多く知っていたということになる。

 なんてそれほど大仰なものの書き方をしなくてもよいのだが、わたしにとって今回のことは、わりと重大な決断である。

 なんと言っても、自分に諭吉の名をつけてからの私は、徹底的に本名を隠すよう努めてきた。何故知られたくなかったのかは今となってははっきりしない。はっきりしないくせに、その考えはどんどん強くなり、私の発想を偏らせた。本名を知られる可能性があるが故に、活動のきっかけ的な前述のオーディションについても、なるべく発言を避けるほどだった。

 しかし私は以前、「掻き集めた人が書いたまとめ記事」を見つけた。その記事には、しっかりとオーディションの情報と私の本名が記されていた。私はその記事に感心した。他の記事であれば私の本名なんてものは、「諭吉佳作/menは本名ではないそうです。本名が気になりますね〜」で諦められている部分だった。

 同時に、まずいなあとも思った。その、誰が書いたのかわからない、「調べてみました!」的な記事がどれだけの人間に読まれるのかは謎だが、インターネットの海に存在している以上、いつか誰かは必ず目にする。

 なぜ誰も望んでいないにもかかわらず(どちらかと言えば私自身も、わざわざ隠されていた名が急に明かされると興醒めすると思う)私が本名を書いてしまうのかと言うと、「ばれつつあるがまだ完全にはばれていない今の段階が、間抜けでない自白(別に罪を隠していたわけではないがわたしにとってはそのくらい大きい)をする最後のチャンスだから」である。

 今が間抜けでない自白をする最後のチャンスなのはわかるとして、そもそもなぜ自白が必要なのか。

 必要と判断した理由はいくつかあるが、どれもつながっていて、ひとつひとつを切り離しづらいから、雑多なままに並べていく。

 まず、外側から徐々にばれていって、「諭吉さん、本名隠してただろうに、ばれちゃったんだね(笑)詰めが甘いから(笑)いやいや大丈夫大丈夫、本名くらい、なんてことないよ(笑)」と思われたくなかったからだ。もちろん、周りの人間が皆一様に、こんな風に私を哀れむはわからない。

 上記のようなことを恐れているのだと他人に相談したら、そんなに細かいことを考える人はいないのでは、わざわざ自分から明かすことはないのでは、と諭された。めちゃくちゃごもっともだ。

 しかし何より、この時、一番に私を哀れむのは私自身だ。流出のような構図で本名が明らかになるのは、私にとって、好ましくなかった。意図しない形で本名がバレたとき、私は、「鈴木みゆという名はバレたくないものだった」という認識を確固たるものにしてしまう。

 逆のことも言える。もし本名がバレることがなかったとしても、私が本名を意図的に隠し続ける限りは「私にとって私の本名は人目から隠したいものである」という認識から逃れられないのだ。これはわたしが顔について考えていたときにも同じような結論に至った。

 本名を隠そうとすることこそが、自分を本名によって苛ませる理由の一つになっていた。本名のことを考えたくないから本名を隠したつもりだったのにね!😖残念!😢

 


 とにかく、私は私のために、本名を隠すのをやめるということだ。

 本名なんて、隠す隠さないで悩むほど大きなことではない!今晒してしまえば、今後、ばれたくないと思うこともないし、どうでもよくなる!本名なんか、そんなに重きを置くような情報でもないのだ!……と自分自身が納得するためだけに、長い文章を書いている(本当に長いな。ここからも相当長いです)。

 無駄と思われるかも知れないが、私は私自身が納得するために時間を使っているのだ!それで実際にすんなり納得できるかどうかは別にして、「ちゃんと納得しています」というポーズを取り、次に、「ちゃんと納得していますというポーズを他人に見せることができます」というポーズをも取ることが、私にとって重要だ!

 (今思ったんですけど、これはプライドの高い人間の発想なのかもしれん〜🥺

 そういえば、昔、プライドが高い/低いという話をしたことがあった。小学2、3年生の頃だったと思う。大抵小学校低学年生の頃に「土下座」を通りますよね。クラス内での「土下座」の流行ありますよね。

 「私はプライドが高いから土下座などできません」と言う人の気持ちが全くわからず、「なんでだよ、土下座くらいできるだろ、俺は土下座くらいいくらでもしてやるよ〜」と思っていた。そのときの私はその感覚がつまりどういうことなのか説明できずに「自分はプライドが低いのだな」で片付けていた。(小学校低学年生はプライドの有無を測る場合大抵「土下座」を引き合いに出します。もうこれは決まっています。)

 しかし、それは、要は、「自分はこの高いプライドに見合う人間だ、と自負しているなら、たった一回の土下座ごときで自分の立場が揺らぐと考えるわけないだろ。むしろ土下座を軽々しく、余裕でぶっかましてこそ、プライドが高く保たれるだろうが!土下座なんていう心がなくてもできる動作に自分のプライド預けてんじゃねえよ」という馬鹿みたいに高いプライドの表れだったんだな、今思うと😢やば😖話戻そ🥺)

 


 昔から、名前をたくさん持つことに憧れがあった。それは必ずしも本名である必要はなかった。ペンネームやハンドルネームを考えては、いつかのためにと、名前のストックをしていた。

 自分で自分の名前をつけられることが、喜ばしかった。自分の名前を自分でつけたいという欲求と、自分をたくさん所有していたいという欲求(については2019年9月6日発売の 文學界十月号 で書いています。これをこうして文章にしたのは自分の考えと心を安定させていく上でとても重要だったと感じています。http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai1910.htm#bk-purchase)によるものだっただろうか。そういう場で、ほかの名前に比べて本名が特別重要になることはなかった。

 だからこそ今回、私は、現段階で二つも晒している名前の中にであれば、本名を混ぜてやれると思った。あくまでも、私が持っている複数の名前の中に平等な重さで存在することを実感するには今がちょうどよいと思った。

 これまでは、どれだけ諭吉が頑張ったとしても結局のところ本当の自分(そもそも本当の自分ってなんやねんなという話でもある)は戸籍上の名前である鈴木のところにしか預けられないと思っていた(この預けるとか預けないとかの話も文學界でしました)。しかしどれも私が平等に欲している名前で、全部好きなように使ってよいのだ。土下座にプライドを預けるのも本名に大事なものを預けるのもやめたということだ。

 マジな話、学校のプリントに記名する時も、ちょくちょく「諭」って書きそうになるし、あと、この間学校で「諭吉佳作/menさんですか!?」って言われて失神するかと思ったし、そのくせTwitterにミユさんが現れると変な汗かいてくるし、世のジロウさんのことは同じ名前ですね!くらいに思っている節もあり、もう気にするだけ馬鹿らしいところまで入り込んできているなという感覚がある。

 ひとつだけ心配なのは、諭吉をやめたくなった時どうなるかなということだ。

 


 自己満足前提ではあるが、実際のところを言えば、自分以外の人がこの文章を読んでくれなければ効果が大きくないのは当然だ。しかし私が、この文章を読んだ人からの特定の反応を期待することはない。重複するが、やはり、わざわざ自分から本名を明かした文章が誰かの目に触れるという事実が大切なのだ。

 特定の反応を期待することはないと書いたが、特定の反応を嫌うことはあります。例えば、私の本名を私の弱点のように扱ってくる人がいたとすれば、私はその人のことを無視します。「諭吉」に向かって鈴木の名前で呼んできたらそれもやっぱり無視するかもしれない。

 


 散々「隠さなければ」「バレたくない」などと書かれてきた「鈴木みゆ」という名前、「名付け親に対して失礼だ」とか「この世にいらっしゃるスズキミユさんに失礼だ」とか思われたらどうしようと不安になったので念のため書いておきます。

 私が名前を隠していたのは「鈴木みゆ」という名前が嫌だったから知られたくなかったのではなくて、自分の名前を知られたくなかったのが理由です。自分がどんな名前であろうが同じだったと思います。

 では私が「鈴木みゆ」という名を気に入っているのかと言うと……「鈴木」と言うのはあまりにもたくさんいるせいで、正直、全然好きじゃない。「鈴の木」だなんて、本来とても美しい言葉のはずなのに、「たくさんいる、見本のような苗字である」という先入観がその先を考えさせない。鈴木同士で話をすれば、「鈴木って結構嫌だよね」という話題になることもある。

 でも「だから隠したのか」と聞かれれば、そんなはずはないと断言できる。

 


 余談ですが(わざわざ注釈を入れるには今更過ぎる)。

 ある音楽家の方に本名を教えた時、「諭吉さんの苗字が鈴木なのは意外だ。陰陽師とかかと思ってた」と言われたことがある。「陰陽師」という苗字はないのに、「オンミョウジ」という語の中に「ミョウジ」が入っているのは、何かよくわからないけど感じがよい。私が陰陽師っぽいか否かは私には判断できないけれど。

 

 

 

いかがでしたか?

諭吉佳作/menさんの今後の活動も気になりますね⭐︎

注目していきましょう!

(嘘)大トロ・インターネット

‪昨日おれが気持ちを込めて耕した畑へ、今日また作業に行ったら、なんと一晩のうちに、大トロ・インターネットが生い茂っていた。おれは呆然とうっとりとを交互に3回ずつやった。繋がりあった脂質や艶やかな色は非常に立派なもので、そういったことに疎いおれから見ても上物と思われたが、そもそもおれには大トロ・インターネットを栽培するつもりなど毛頭なかったし、いまおれが走らせてきた軽トラックには、たしかに、今日植えるつもりだった九条葱の種が積んである。おれは九条葱を育てたくて、この町へ越してきたのだ。

‪さて、この大量の大トロ・インターネットをどうするべきか。おれにはわからなかった。誰がこんな、手の込んだことを。おれの畑なのに。昨日の昼間おれは、九条葱のために、ふっくらとした土を作り上げた。おれがしたのはそこまでだった。それからたった今までの間に大トロ・インターネットがこんなにたくさん生えてくるなんて、人為的な何か以外にはあり得ないし、例え実際にそうであったとしても、意図がわからない。おれの畑なのに。

‪とりあえず、おれの知人に、大トロ・インターネットに詳しい人間がいなかったかと、記憶を辿った。……そう言えば、おれが高校3年目(おれは留年をしていた)の時の担任は、大トロ・インターネット農家をやるために、たしか、その次の年に教職を離れた。しばらくした時、質のよい大トロ・インターネットをたくさん生産して先生はかなり儲けているらしいんだという話を、おれは一個下の田町くんから聞いていた。

‪おれは先生のことがけっこう好きだった。先生を辞めて大トロ・インターネットを育てようと考えるくらいだから、今おれの前に立ち塞がる不可解な問題についても、何か力になってくださるのではないかと、ふんわりとした期待を抱いた。

‪しまった!おれが先生の連絡先などを、知っているはずがなかった!

‪がっくりと項垂れ、頭が真っ白になったが、かわいいかわいいおれの畑が他人に侵されていることを考えてこうもしていられないと思い、おれは畑の脇の道路へ停めた軽トラックに乗り込んだ。それから、深呼吸をした。鞄に入っていたiPhoneを手に取って、おれはどきどきしながら、検索窓に「大トロインターネット 勝手に生える」と打ち込んだ。読み込みの達成率を画面上部の青い線が表すが、それはちびちびと、おれにばれないようにしているみたいな速度だった。おれは急にいらいらしてきた。速度制限がかかっているはずはない。今日は一日だ。あり得ない。不安に腹が立ち、奥歯で何か硬いものを捻り潰したくて仕様がなくなった。どうしておれの畑がこんな目に合うのだ。誰が何を目的に大トロ・インターネットなんか、しかも人様の畑に!そもそも、おれは、どうして畑を買ったのだ?なぜ先日のおれは、あんなにほくほくと湧き立つ気持ちで、九条葱の種を買ったのだ?葱は好きだけれど、だからって何も、自分で育てることないじゃない!そのためだけに、おれは、ここに越してきたのか?いけない、苦しくていけない。何か楽しいことを考えるべきだ。おれが貧乏ゆすりをしながらもふもふの羊をイメージしていると、強く握りしめていたiPhoneがけたたましい音を発した。電話だ!知らない番号だ!しかしおれはすぐに応答した。そして確認もせずに叫んだ。

‪先生!大トロ・インターネットが大変なんです。何か知っているんじゃないんですか。

‪強い言い方をしたことを悔いたが、相手はやっぱり先生だったから、安心した。先生はおれの身に起きていることを知っていたかのように、おれの中途半端な言葉を冷静な態度で包み込んだ。

‪先生はおれに、まずは大トロ・インターネットが本物かどうか確かめなさいと言った。本物の大トロ・インターネットは、赤色、青色、緑色の三色の根がまっすぐ生えており、隣り合う茎どうしがぐちゃぐちゃと絡み合うという性質を持っているらしい。他にもいくつか特徴はあるが、それがわかっていれば大丈夫だろうとのことだった。三色の根はまだしも、偽物ならば絶対に茎が絡まないという保証はどこにもないじゃない……と思いながら、それでも先生にお礼を言って、電話を切った。どうして先生から電話をかけてきたのかはわからなかった。おれは軽トラックを降りた。

‪何度瞬きをしても大トロ・インターネット(仮)畑と化している、おれの畑に、おれは昨日ぶりに足を踏み入れた。しかし、もはや昨日と同じ場所に立っているとは思えなかった。目の前の大トロ・インターネット(仮)たちは、絡み合いながら高く伸びている。本物だ。ポケットにしまっていた軍手をつけると、おれは大トロ・インターネット(仮)たちの中にしゃがみ込んだ。その中の一本を適当に選び、茎を握って、手始めに、軽く引っ張ってみた。びくともしなかった。今度は、まわりの土を少し掘り起こしてから、あるだけの力を込めて引っ張った。それでもなかなか難しいので、体液という体液が頭部に集結して溢れ出しそうだと感じるほど、強く引っ張った。すると、まわりの三、四本が、一斉にばしゃばしゃと土から出てきた。少し唐突で驚いた。それらの根は、言われた通りの三色だった。植物には考えられない色合いに、おれはほう、とすっかり見入ってしまった。ちょっと良いかも、とすら思い始めた。しかし、一斉に抜け出たことからもわかるように、それらの根は絡み合っていた。偽物だ……。先生は、根はまっすぐ生えていると言っていた。

‪心臓が一切の熱を失ってしまったようだ。なぜかおれは、裏切られたような気持ちになっていた。おれは九条葱を育てるためにわざわざこの町に来て、畑を買い、耕し、種を買い、それなのに、人様の畑に勝手に植物を植える人間が現れ、苛立ち、九条葱へのモチベーションすらも奪われようとしていて、そしてまさか植わっていた植物が大トロ・インターネットの偽物だなんて……。

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