諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

プリとPrint<Love>Club

※一時的な公開かもしれない

※挿入されているgif画像はミュージックビデオとは無関係です

 

 プリを何度か経験した人たちは、その楽しさ、華やかさ、連帯感、全能感に加えて、自分たちの顔は一体誰のものなのかという複雑な問い、さまざまな考えを持ってきたと思います。

 ビデオを公開したこのタイミングで、もう一度プリについて考えました。AI生成の顔の有機的なリップシンク、プリクラコーナーを闊歩する匿名の人間、ノイズたっぷりの映像は、ただ視覚的にも面白い映像であるとともに、考えさせられます。(これは私が視聴者として勝手に言っている感想で、ディレクターの山崎連基さんの意図とは無関係です。)

諭吉佳作/men「Print〈Love〉Club」Music Video - YouTube

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 プリの画像を公開すると「誰かわからなかった」「顔が違いすぎ」などと言われることがあるでしょう。そういうコメントを読んで、ああ確かになと思いますが、ごく客観的な視点だとも思います。知らない人が外から特に深い意味もなくそういうことを言うのです。

 私とあなたはさっき一緒にプリを撮ったので、シールに写る二人が誰なのかわからなくなることはありません。そもそも私たちはよく知り合っているので、120%の加工を選択した顔でも、見たらわかるのです、たぶん。そういうわけで、君ら私たちのことを知らないだけだろうと怒ってやりましょう。でも、落書き中、あなたが「これは盛れなかった」と言って自分の顔をペンで塗りつぶすのは、見ていてちょっと心が痛かった。そういう経緯を思い出すと、「顔が違いすぎ」の意味もまた変わってきます。

 たしかに写真の中で顔は変わっているし、さらに隠そうとする事実もある。

 私たちの顔は誰のものなのか?どうしてもその問いを無視できない瞬間もまた、ある気がしています。

 「盛れる」は楽しくて面白くて、追求心と技術革新の結晶であるのにそれを鼻にかけず、あまりにあっけらかんと言い放つもはや武道のような表現であるけれども、同時に「盛れない」という対義語を生みます。「盛れる」と同様に、その言葉を発することは比喩と語感によってスナックほどにも軽いが、だからこそより深刻に思えるのです。

 使用ハードルの下がったネガティブなワードを頻繁に口に出すことで、その意味に打ち勝つか、逆に支配されるかは、人によるでしょう。

 (「盛れる」という言葉は現在、多くはプリやカメラアプリを含む顔加工、派生して通常のカメラ写りが好ましいときに使われますが、起源がプリであるという確認が取れているわけではありません。)

 何より、「盛れた」とき、それは何が盛れているのか?誰の視点から盛れているのか?目を大きく、鼻梁を細く、頬や顎を削られ、肌の色艶を調整される。同じ機械の中にいる限り、ほとんど全員が同じ場所に向かっているように見えます。(最近は、人物を選択しより細かい加工の設定ができるようになってもいます。)

 私は今でこそそれを奇妙な連帯感・画風の統一のユーモア(と、あとは何と言ったらいいか難しいが、顔がどうとかじゃなくフォーマットとしての「kawaii☆」みたいな感覚)として興味深く捉えていますが、顔を正しく直してもらっていてそれがありがたい、と思っていたときも確かにあったはずです。

 世間のユーザーはどう思っているのでしょうか?多くのユーザーやプリ機の側が、「顔を正しく直します」と思ってプレイしているのだとすれば、私はもうこれからは顔の加工をしないでほしいと頼むのかもしれません。でもみなさんやプリ機がどういう意味で顔の加工をするのか、私はよく知らないか、知らないふりをしています。

 ユーザーたちに憂いがないことを願っています。加工を120%にした顔がかわいくて好きで鏡に映った顔もかわいくて好きで全部嬉しいと思えたら本当にすごく最高です。プリの顔が提示されたことによって逆にオリジナルの方が鬱ぐことがあってはならないと思うのです。写真よりも肉体のほうが先にあるのに、それで肩身の狭い思いをさせられたら元も子もないと思います。

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 私自身プリには多少の思いがあって(でなければこんな曲を書くはずがありませんが)、まず機械の構造が好きで、外でのコイン投入とパネル操作、ブースへ入って撮影、ブースを移動し(この移動が本当に素晴らしいです)、落書き、外でシールの受け取り、こんな遊びは本当にすごいと思うのです。また遊んでねと快活に言われるが、これは遊びなんてそんなやさしいものなのか?と思います。

 そしてプリはとても勤勉です。ある時には世のトレンドを追いかけ、またある時には独自のこだわりを追求したテーマ性のある機械をリリースします。

 シールが半透明の大きな写真一枚になったとき、ブース内の段差を活かして多様なポージングを可能にした機械や、カメラの位置・角度を自分で動かせる機械、最大15人もの人が参加できる機械が登場したとき、私はやっぱりこんなものはなかなか他にはないなと思いました。私が知るだけでもこんなに変革があったのです。私の知らない、現在のプリの形になる前の機械から今の姿になるまでを辿ったら、言うまでもなくもっとたくさんの変化をしたでしょう。

 最近は、ブース内がある程度の閉鎖空間であることを利用して、夏季限定の肝試しコースを追加した機械があって、それを知ったときはよくわかりませんが大笑いしました。肝試しが万人にとって嬉しいかはともかく、よい空間のアイディアだなとわくわくしました。そしてプリは体験だと実感するのです。

 私はPrint<Love>Clubを、プリ讃歌であり人生讃歌である曲を書きたいと考えてつくりました。プリ人生です。

 プリも人生も、選択の連続で、より良い方を自分で選ぼうとするけれど、それは自分の手の中であったり、手の中に入れたり、はなから外であったりする。進む方向がわからなかったら教えてくれる人もいるし、あとははしゃいで、互いの存在を感じ合って、時には過度に求められる協調や世の古い価値観を不安に思うこともありつつ、そのわけのわからなさも含めてみんなでロールプレイしていく。それを保存していく。私たちは楽しくて面白い爆発的な瞬間を求めてプリ機にコインを入れます。そしてあっという間に終わってしまう。

 ただプリの声をやりたかったんだろと言われたらそれはマジでそうなのですが、実際に曲を作ると決めたあとは、そういう晴れ晴れしたものを書きたいとはっきり思っていました。

 ここからも、まったく監督の確認をとっていない、私個人の感想です。

 上記のような考えがあったので、まだ監督どころか映像を作ることも決定していないような曲の制作の段階には、正直、私はもっと明るくて、底抜けにハッピーな映像を想像していました。

 曲自体、プリ機の中で流れているBGMをイメージして作っていたので、変に具体的な考えですが、たとえば皆さんがプリ撮影のシーンをさらにスマホで撮影して、それを思い出の映像として編集するとしたら、BGMはPrint<Love>Clubであってほしい、みたいなことも考えました。(ぜひやってみてください。)だから、柄じゃないとわかっていますが、もう直球な、まんまの、山あり谷ありだがとにかく楽しくて、この人生が好きで好きで仕方ない、みたいな映像かなと。

 もし私と同じように、曲から人生最高!という感じの印象を受けていた方がいたら、今回公開されたビデオには少しだけびっくりされたかもしれません。まあどちらにせよ、人生好き好きビデオなっていたらいたで、今度は逆に"諭吉佳作/menのミュージックビデオ"としてはびっくり、という感じになっていたでしょう。そもそもこれまでと全然違うこの曲を収録することも悩みましたし。

 ミュージックビデオ制作が決定し、もともと私自身もファンであった山崎連基さんにお願いすることになりました。山崎さんにつくっていただいたPrint<Love>Clubのミュージックビデオは、楽しげですが、狂気も感じます。それがプリ的にも思えます。撮った本人とその写真を見る他者とでああも感想が違うものはそうないはずだからです。プリの持つ突き抜けた意志に似たものを、この映像からも感じる気がします。

 単純に映像として面白くて好き(他人事みたいだが、本当に面白くて好き)なのですが、考えることもあります。

 もし自分の顔が自分のものと思えないような感覚に苦しめられている人がいるとしたら、この映像の、楽しくおかしくもどこか狂気じみたはちゃめちゃさに、助けられるかもしれないと思ったりしました。この考えはちょっと、私は制作者ではないので、裏の裏の裏、みたいな感じかもしれません、わかりませんが、無遠慮なほど次々新しく現れてはいなくなる存在しないAIの顔に、顔とは結局何だろうか?そんなに気にするようなもんだろうか?と一旦フラットなところへ立ち返るような感じがします。私的には。

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 ここからは、現実のプリ機と、Print<Love>Club制作にまつわる反省です。ここまでもそうだったかもわかりませんが、この先はさらに、まったくわくわくするような話ではありません。

 私は今回公開されたビデオの編集段階のデータを共有していただき、プレビューしたときに、久しぶりに自分の身体が女性であることを思い出しました。

 自分はそういう見た目とはまた離れているとは思いますが、傾向として、髪が長くメイクアップされた女性的とされる顔つきの人たちが代わる代わる登場する映像に、客観的な意味での「プリ機を利用する自分の立場」を思い出しました。私の身体は女性です。

 ここでは、プリを純粋に楽しもうとする女性、それからプリを純粋に楽しもうとする男性のみ一人以上の客がプリを利用できないケースについて触れていきます。

 これから、(内容は詳細ではありませんが)プリ機の中で起こる犯罪等の話を、おそらく被害者にも、当然加害者にもなったことのない私の立場から、書かせてもらいます。

 続けます。

 基本の想定される客層が女性で、ほとんどの場合で男性主観はカップルコースにしか含まれないなど、そもそもプリという商品自体が純粋にプリを楽しもうとする男性のプレイには手厚くない側面がありますが、利用自体ができないのはもちろんそういう問題ではありません。

 ナンパや乱入、痴漢、盗撮等の迷惑行為・犯罪行為が横行したことで、対応として徐々に、男性のみでの利用を制限する決まりが個々の施設によってつくられるようになったようです。現在もすべての施設で施策されているわけではなく、注意喚起の張り紙だけがされていて、利用については制限のない店舗も見たことがあります。

 先ほども、プリ機はある程度の閉鎖空間だと書きました。クオリティの高い撮影や没入を助けるための構造ですが、それを悪用し、他者を脅かしたり、傷つけたりする人間がいるようです。決して許されません。

 まず何よりも、プリ機の中で何らかの被害を受けた人は、(もちろんプリ機の中でのことに限りませんが、)勝手な他人の悪意のせいで傷つけられてしまいます。その後、ただ楽しみたいと思っても、プリ機に入ることができなくなってしまう可能性もあります。

 当然、すべての男性が迷惑行為・犯罪行為をはたらくわけではありませんし、すべての迷惑行為・犯罪行為が男性によって行われるわけでもありませんから、すべての男性の利用を禁止することは解決法とは言えません。でも、迷惑行為・犯罪行為をはたらく男性たちが自らの男性であることで得られる特権を意識的あるいは無意識的に悪用しているのも、また事実だと思います。

 私は曲中で、「おれたち」という三人称を使用しました。(他にも「僕ら」「おれら」を使っています。)この曲で讃美するプリ人生とは、全ての人のである、という思いからでした。「おれ」は単に私の一人称ですが、男性性の表現のために用いられることも多くあるので、プリの当事者になりがちな女性だけでなくより多くを内包する表現にできるかもしれないと思い、意図的に使用しました。

 これまで書いてきた曲にはなかったポジティブさと祝福を感じる曲になった気がして、嬉しかったです。でもそれは音楽の中の話で、少なくともまだ現実には、いろいろな意味で、すべての人にとってのプリ人生が実現してはいないのかもしれません。それをあまり考えていなかったなと思いました。全部、プリに限ったことではないですが。

 まずは女性が安心して利用できる、セーフスペースになってほしいです。とにかく。そしていつかは、純粋にプリを楽しもうとするすべての人がただ純粋に楽しく遊べる場所になったらいいな……。そこにあらゆる憂いがひとつもないといいと思います。

 


 ビデオ公開でこの曲のことをもう一度考え直したとき、プリ文化を好きで曲を書いたことの責任を感じて、ひとまず書いてみることにしました。認識の間違い等はぜひおしえてください。