諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

2021/men②

 何にしても本当にCDリリースをできてよかった。まず最初に思いつくことはどうしてもそれだ。

 いろんなことをした。リリースに伴いはじめてのことをいくつかした。どれも素晴らしい経験だった。でもなんとなくもう言うことがないような気がしているのは、取材をしていただいたり、自分の中で考え尽くしたりして、もうわざわざ書き記しておくまでもないと感じているからかも知れなかった。

 


 ああ、でも、本当に別にもう、書くことがないかもしれない。あまり急ぐのはやめよう。書きたいことが現れてきたときに現れた分だけ書くことにする。

 


 現れなかった!

 最近は、頭の中で考えたことを、もう全部伝えた気になっているときがある。だからだろうか?現れてこないのは。

 当たり前だけれど、この世の誰にも、外に見せる部分と見せない部分があり、それはその人によって意識的だったり無意識的だったりするのだろうけれど、たとえ意識したとしても、全部を見せられる人はいない。また、全部を隠せる人もいないだろう。(私自身はそのことを非常に悔しく思って生活しているが、実際問題、制御できないということもまあそれなりには重要で、無意識下で見せる態度によって他者から好かれ(たり、嫌われたりし)て結果的にプラス(もしくはマイナス)になるようなことがあるのはわかっている。)

 私はというと、どちらかと言えば意識的に、見せたり見せなかったりしているつもりだった。他人にとってふとたまたま垣間見えたように感じられる私の一部は、私にとっては存外、熟考した上での披露だったりもする。そういうことを考えながらSNSをやっていた。が、最近は逆に、もうすでに全部見せた気になっていて、新鮮な反応をされたとき、あ、そうかこれを書くのは初めてか、と思い出すことがある。

 だから何というわけではないが、私自身にとってこれは意外な変化だ。

 見せないようにしていたのにふと発露してしまった、ということはあるだろう。理解できる。私は考えている方だから比較的(何との比較?他者?)には少ないと思うが、全てを制御するのは難しい。悔しいけれど、そういう、つい出てしまった、というようなことは、私自身の気づかないところで私にも起こっているに違いない。でもその逆はよくわからない。伝えたけれど伝わっていないということも違う。伝えていないのに私のことを全部知られているような気がしているときがある。

 だからもう今更書かずとも全部知られているのでは?なんて……

 と文章にしていて、本当か?と思い始めた。なんでも、文章にしたら嘘っぽくなる。それに、書いていると、全部知られているわけがないだろ、と冷静な自分が言う。やっぱり、どれだけ頭で考えたところで駄目で、いや別に、頭で考えたいだけならばそれでいい。ただ見せようと思うのなら書かなくてはならない。

 ここまでが前置き!

 


 CDをリリースしたということが私の2021年にとってどれだけ大きなことだったのか。

 たくさんの人の力も借りていろいろと準備して、ようやく4月7日にリリースを発表、そこでまず関心をもらって、気が抜けてもうリリースを終えた気になったのが懐かしい。

 5月25日フラゲ日、普通に学校に行って、そのあとふらっとタワーレコードに行った。店内であまりに自然にムーヴが流れていて、それが終わるとままが流れた。なんだかおかしかった。

 リリースをするってことは、単にリリースをするということではない(私は、なんか知らんけど、この言い回しを日常生活でもよくする)。まずアーティスト写真を撮った。それから収録曲のミュージックビデオを撮ったり、取材を受けたり、音楽と関係なくアンケートで参加した雑誌にもリリース情報が載ったり、ラジオなど番組出演もした。リリース活動には必然的にこういうことも含まれてくるのだ。(それを必然と思うのは私の中のリスナー的な感覚からであって、実際には私のチームとして動いてくださる会社の人たちの努力だったり、ありがたく外部からオファーをいただけたりした結果なのだが。)ミュージックビデオの撮影や取材などは、それ自体ははじめてではなかったけれど、個人リリースありきのそれはまた新鮮だ。楽しい。

 今年はライブ出演は少なかった。けれど、こういう状況の中でも安全に配慮して開催されたオンライン・オフラインイベントに自分も助けられた。自分が出演したものもそうだし、自宅から見ていたものにも。

 


 まず振り返ると、自分は曲のタイトルを決めるのが得意ではない。あれとそれを判別できればいいのだからなんでもいいだろ!という気持ちと、いやでも一応なんかいい感じのを決めなきゃ……という気持ちが入れ替わり立ち替わり現れる。だから大層迷うだろうと思っていたCDのタイトルだけれど、自分の中では案外さっと決まったような気がする。それを言い出しづらかっただけで。そう、すごく言いづらかった記憶がある。なぜだろう?なぜかすごく言い出しづらかった……。

 からだポータブルというCDは、実はからだポータブルができる前から存在していた。私がごく個人的に趣味で書いていた物語の中にだ。その話に出てくる佐塚さんという人(それは別にどうでもいい)が自主制作したCDのタイトルが「からだポータブル」だった。だったというか、私がそうしたからそうだ。今回のEPに関しては、それをそのまま使ってみた。今考えるとなんで?って感じだけれど、それは諭吉佳作/menの時点でそうだから、考えても仕方ない。

 架空のCDとしての「からだポータブル」は、リズムを手がかりにしただけの、単なる二つのワードの連結だった。しかし現実のCDのタイトルとして考えたとき、その名は自分自身の願いとも一致していることに気づき、まあ後付けなのだが、むしろそのくらい軽い命名であること自体がCDを私のCDたらしめるということもあり、決めてしまった。

 放るアソートに関しては、もうそのままだ。共作の相手も、作りはじめた季節も、内容も、ほとんどばらばらなそれらを「諭吉佳作/menが関わっている」という一点を理由に一つにまとめてしまうのだから、その少々投げやりなくらいに混在している様をタイトルからアピールしないわけにはいかない。その方がかえって誠実だと感じた。それで放るアソートだ。土台が理性的なわりに、こちらもリズムっぽい。考え込んだ記憶はないのだが、はまっているなと思う。収まりがよい。

 


 ミュージックビデオの撮影はなんか、本当にいつでもやりたい!と思う。よくわからないけれど、なんか、やりたい!と思う。そのときは当然疲れて帰るんだけれど、なんか、いつでもやりたい!と思う。

 私が一人で音楽をつくるとき、まったく聴き心地の違う二曲を作るとしても、その工程はさほど変わらない。今のところ、それがどんな曲であろうと、基本的には一人で打ち込みをするだけなのだ。レコーディングも歌うのは自分一人。けれど、実写でミュージックビデオを撮るなら、仮に私一人の曲だとしても、毎回全然違うだろう。個人の曲で撮った実写のミュージックビデオは一本なので「だろう」としか言えないけれど。

 曲も監督も変わって、やることも変わるから映像も変わる。当たり前だけれど、ごく簡単に言葉にしたらそういうことになる。耳で聞こえることと目で見えることの違いも根本にあるわけだから、本当に当たり前のことだけれど、そういうことになる。

 あとやっぱり、やるのは自分でも、考えるのは自分じゃなかったりするわけで、あまりそういうふうには見えないかもしれないけれど、私は何かをやらされるのが好きなので、そういうのも楽しくて、いつでもやりたい。そのためにはまずミュージックを作らないとミュージックビデオはつくれないですね。いやまあ、ビデオからミュージックを作るという方法もなきにしもあらずかもしれませんが。難しいでしょうね。ちょっとやってみたくなってきた。

 


 予想だけれど、次のまとまった作品があるとすれば、変なこだわりみたいなものは薄れて、より冷静に意図的に作ることもあるのではないかと期待している。

 からだポータブル が「変なこだわり」のためだけに作られたものだというわけではないけれど、周りの人も自分も待たせた一作目だったのだ。初めてなりに、抽象的で個人的な願いが含まれていたのは否定できない。その気持ちが制作活動を突き動かしていたとも言える。悪い気持ちだったとは思わない。そして二回目以降にはそれがなくなるかもしれないことも、悪いことだと思わない。

 


 何かやりたいことがたくさんある気がしているのだが、ちゃんとまとめないとまとまってくれない。

 2022年はにゃんにゃんって感じだし、寅年だし、元気を出していきたいと思います。がお