諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

2021/men②

 何にしても本当にCDリリースをできてよかった。まず最初に思いつくことはどうしてもそれだ。

 いろんなことをした。リリースに伴いはじめてのことをいくつかした。どれも素晴らしい経験だった。でもなんとなくもう言うことがないような気がしているのは、取材をしていただいたり、自分の中で考え尽くしたりして、もうわざわざ書き記しておくまでもないと感じているからかも知れなかった。

 


 ああ、でも、本当に別にもう、書くことがないかもしれない。あまり急ぐのはやめよう。書きたいことが現れてきたときに現れた分だけ書くことにする。

 


 現れなかった!

 最近は、頭の中で考えたことを、もう全部伝えた気になっているときがある。だからだろうか?現れてこないのは。

 当たり前だけれど、この世の誰にも、外に見せる部分と見せない部分があり、それはその人によって意識的だったり無意識的だったりするのだろうけれど、たとえ意識したとしても、全部を見せられる人はいない。また、全部を隠せる人もいないだろう。(私自身はそのことを非常に悔しく思って生活しているが、実際問題、制御できないということもまあそれなりには重要で、無意識下で見せる態度によって他者から好かれ(たり、嫌われたりし)て結果的にプラス(もしくはマイナス)になるようなことがあるのはわかっている。)

 私はというと、どちらかと言えば意識的に、見せたり見せなかったりしているつもりだった。他人にとってふとたまたま垣間見えたように感じられる私の一部は、私にとっては存外、熟考した上での披露だったりもする。そういうことを考えながらSNSをやっていた。が、最近は逆に、もうすでに全部見せた気になっていて、新鮮な反応をされたとき、あ、そうかこれを書くのは初めてか、と思い出すことがある。

 だから何というわけではないが、私自身にとってこれは意外な変化だ。

 見せないようにしていたのにふと発露してしまった、ということはあるだろう。理解できる。私は考えている方だから比較的(何との比較?他者?)には少ないと思うが、全てを制御するのは難しい。悔しいけれど、そういう、つい出てしまった、というようなことは、私自身の気づかないところで私にも起こっているに違いない。でもその逆はよくわからない。伝えたけれど伝わっていないということも違う。伝えていないのに私のことを全部知られているような気がしているときがある。

 だからもう今更書かずとも全部知られているのでは?なんて……

 と文章にしていて、本当か?と思い始めた。なんでも、文章にしたら嘘っぽくなる。それに、書いていると、全部知られているわけがないだろ、と冷静な自分が言う。やっぱり、どれだけ頭で考えたところで駄目で、いや別に、頭で考えたいだけならばそれでいい。ただ見せようと思うのなら書かなくてはならない。

 ここまでが前置き!

 


 CDをリリースしたということが私の2021年にとってどれだけ大きなことだったのか。

 たくさんの人の力も借りていろいろと準備して、ようやく4月7日にリリースを発表、そこでまず関心をもらって、気が抜けてもうリリースを終えた気になったのが懐かしい。

 5月25日フラゲ日、普通に学校に行って、そのあとふらっとタワーレコードに行った。店内であまりに自然にムーヴが流れていて、それが終わるとままが流れた。なんだかおかしかった。

 リリースをするってことは、単にリリースをするということではない(私は、なんか知らんけど、この言い回しを日常生活でもよくする)。まずアーティスト写真を撮った。それから収録曲のミュージックビデオを撮ったり、取材を受けたり、音楽と関係なくアンケートで参加した雑誌にもリリース情報が載ったり、ラジオなど番組出演もした。リリース活動には必然的にこういうことも含まれてくるのだ。(それを必然と思うのは私の中のリスナー的な感覚からであって、実際には私のチームとして動いてくださる会社の人たちの努力だったり、ありがたく外部からオファーをいただけたりした結果なのだが。)ミュージックビデオの撮影や取材などは、それ自体ははじめてではなかったけれど、個人リリースありきのそれはまた新鮮だ。楽しい。

 今年はライブ出演は少なかった。けれど、こういう状況の中でも安全に配慮して開催されたオンライン・オフラインイベントに自分も助けられた。自分が出演したものもそうだし、自宅から見ていたものにも。

 


 まず振り返ると、自分は曲のタイトルを決めるのが得意ではない。あれとそれを判別できればいいのだからなんでもいいだろ!という気持ちと、いやでも一応なんかいい感じのを決めなきゃ……という気持ちが入れ替わり立ち替わり現れる。だから大層迷うだろうと思っていたCDのタイトルだけれど、自分の中では案外さっと決まったような気がする。それを言い出しづらかっただけで。そう、すごく言いづらかった記憶がある。なぜだろう?なぜかすごく言い出しづらかった……。

 からだポータブルというCDは、実はからだポータブルができる前から存在していた。私がごく個人的に趣味で書いていた物語の中にだ。その話に出てくる佐塚さんという人(それは別にどうでもいい)が自主制作したCDのタイトルが「からだポータブル」だった。だったというか、私がそうしたからそうだ。今回のEPに関しては、それをそのまま使ってみた。今考えるとなんで?って感じだけれど、それは諭吉佳作/menの時点でそうだから、考えても仕方ない。

 架空のCDとしての「からだポータブル」は、リズムを手がかりにしただけの、単なる二つのワードの連結だった。しかし現実のCDのタイトルとして考えたとき、その名は自分自身の願いとも一致していることに気づき、まあ後付けなのだが、むしろそのくらい軽い命名であること自体がCDを私のCDたらしめるということもあり、決めてしまった。

 放るアソートに関しては、もうそのままだ。共作の相手も、作りはじめた季節も、内容も、ほとんどばらばらなそれらを「諭吉佳作/menが関わっている」という一点を理由に一つにまとめてしまうのだから、その少々投げやりなくらいに混在している様をタイトルからアピールしないわけにはいかない。その方がかえって誠実だと感じた。それで放るアソートだ。土台が理性的なわりに、こちらもリズムっぽい。考え込んだ記憶はないのだが、はまっているなと思う。収まりがよい。

 


 ミュージックビデオの撮影はなんか、本当にいつでもやりたい!と思う。よくわからないけれど、なんか、やりたい!と思う。そのときは当然疲れて帰るんだけれど、なんか、いつでもやりたい!と思う。

 私が一人で音楽をつくるとき、まったく聴き心地の違う二曲を作るとしても、その工程はさほど変わらない。今のところ、それがどんな曲であろうと、基本的には一人で打ち込みをするだけなのだ。レコーディングも歌うのは自分一人。けれど、実写でミュージックビデオを撮るなら、仮に私一人の曲だとしても、毎回全然違うだろう。個人の曲で撮った実写のミュージックビデオは一本なので「だろう」としか言えないけれど。

 曲も監督も変わって、やることも変わるから映像も変わる。当たり前だけれど、ごく簡単に言葉にしたらそういうことになる。耳で聞こえることと目で見えることの違いも根本にあるわけだから、本当に当たり前のことだけれど、そういうことになる。

 あとやっぱり、やるのは自分でも、考えるのは自分じゃなかったりするわけで、あまりそういうふうには見えないかもしれないけれど、私は何かをやらされるのが好きなので、そういうのも楽しくて、いつでもやりたい。そのためにはまずミュージックを作らないとミュージックビデオはつくれないですね。いやまあ、ビデオからミュージックを作るという方法もなきにしもあらずかもしれませんが。難しいでしょうね。ちょっとやってみたくなってきた。

 


 予想だけれど、次のまとまった作品があるとすれば、変なこだわりみたいなものは薄れて、より冷静に意図的に作ることもあるのではないかと期待している。

 からだポータブル が「変なこだわり」のためだけに作られたものだというわけではないけれど、周りの人も自分も待たせた一作目だったのだ。初めてなりに、抽象的で個人的な願いが含まれていたのは否定できない。その気持ちが制作活動を突き動かしていたとも言える。悪い気持ちだったとは思わない。そして二回目以降にはそれがなくなるかもしれないことも、悪いことだと思わない。

 


 何かやりたいことがたくさんある気がしているのだが、ちゃんとまとめないとまとまってくれない。

 2022年はにゃんにゃんって感じだし、寅年だし、元気を出していきたいと思います。がお

2021/men①

 今年は本当に早かった。今年は早かったと毎年言い続けているしこれからもそうなのだろうから、もう言わなくていいし、ブログの始まり方としてもそんなによくないと思うけれども、こんな注意書きをしてまで出だしに書こうと決めるくらい、今年は早かった。

 早かったというか、記憶がない。印象に残っている出来事はたくさんあるのだが、それ以外の記憶の方はあまりないような気がする。生きた実感が薄い。と書いてみて、どの年でもだいたいそんなもんじゃね?と思ったが、昨年どうだったかというのは一年を更新した今忘れている。

 実は、昨年は振り返りのブログを書いていないらしかった。だから尚更どんなモードだったのかわからない。

 

 とりあえず今年の行いについてご報告します。結構ごちゃごちゃ書いていて、自分でも混乱しています。

 抜けているものがあったらこっそり教えてください。

 

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⚫︎2021.2.26


fishbowl - 「深海 feat.諭吉佳作/men」


ミュージックビデオ

https://youtu.be/d1lNjt3F11I


静岡県を拠点とするアイドルグループ fishbowl の初楽曲「深海」のボーカルを担当し、深海 feat.諭吉佳作/menとして先行公開。

 

 

⚫︎2021.4.7

 

からだポータブル・放るアソートリリース発表

 

5月26日にCDリリースすることを発表しました。このときすでに満足しかけていました。

 

 

⚫︎2021.4.13〜

 

坂元裕二 朗読劇「忘れえぬ 忘れえぬ」、「初恋」と「不倫」

 

坂元裕二さんの朗読劇の音楽を担当させていただきました。主題歌 はなしかたのなか と挿入歌を書き下ろしました。とても光栄でした。

 

 

⚫︎2021.5.9


はなしかたのなか 先行配信

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https://tf.lnk.to/hanashikatanonaka

 

坂元裕二 朗読劇「忘れえぬ 忘れえぬ」、「初恋」と「不倫」 の主題歌として書き下ろした曲。からだポータブルからの先行配信です。

 

 

⚫︎2021.5.21

 

YouTubeチャンネル開設


この星にされる ミュージックビデオ公開

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https://youtu.be/_xVslFWnxek


YouTubeチャンネルを開設し、からだポータブル から この星にされる のミュージックビデオを公開。監督は 渋江修平 さん。

 

 

⚫︎2021.5.26


からだポータブル

放るアソート

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念願の初CD作品リリース。からだポータブルは全新曲のソロ盤、放るアソートは既存曲+新曲のコラボ盤。


からだポータブル

https://www.toysfactory.co.jp/sp/artist/yukichikasakumen/disco/2260

1.ムーヴ

2.まま

3.ショック

4.外B

5.この星にされる

6.くる

7.はなしかたのなか

8.撫で肩の…………


放るアソート

https://www.toysfactory.co.jp/sp/artist/yukichikasakumen/disco/2261

1.「動く物の園」abelest + 諭吉佳作/men

2. 「巣食いのて」長谷川白紙 + 諭吉佳作/men

3.「むげん・ (with 諭吉佳作/men)」崎山蒼志

4.「Lucid Dream feat.諭吉佳作/men」AFRO PARKER

5.「たべられる♡/たべられない?」ミドルエステート(根本凪+諭吉佳作/men)

6.「すなばピクニック」 Kabanagu + 諭吉佳作/men

 

 

⚫︎2021.5.28


すなばピクニック  Kabanagu + 諭吉佳作/men ミュージックビデオ公開

f:id:ykcksk_men:20211231163556p:image

https://youtu.be/pKF_p_IIujI


放るアソート から Kabanagu さんとの「すなばピクニック」のミュージックビデオが公開。監督は マルルーン さん。

 

 

⚫︎2021.6.7


Tシャツ発売

https://store.toysfactory.co.jp/sp/shop.asp?cd=56


グッズのTシャツ2種が出ました。

 

 

⚫︎2021.6.11


ムーヴ ミュージックビデオ公開

f:id:ykcksk_men:20211231163632p:image

https://youtu.be/LhAvRK7s5UM


ムーヴ のミュージックビデオが公開されました。監督は 杉山峻輔 さんと JACKSON kaki さん。


⚫︎2021.6.18


巣食いのて 長谷川白紙 + 諭吉佳作/men


配信

https://ultravybe.lnk.to/sukuinote

ミュージックビデオ

https://youtu.be/uG-wC-gyC80


放るアソートにも収録された長谷川白紙さんとのコラボ曲が配信。長久允 さん監督のミュージックビデオも公開されました。

 

 

⚫︎2021.7.20


長谷川白紙 1stワンマン「ニュー園 ショーケース」ゲスト出演


キュー のカバーのカバーと、長谷川さんと一緒に 巣食いのて を歌いました。

 

 

⚫︎2021.8.21


絵で

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配信

https://yukichi.lnk.to/ede

Artiswitch 第5話

https://youtu.be/7i77aMP_-uQ


配信アニメーション Artiswitch 第5話の挿入歌として書き下ろした曲。第5話公開の翌日に配信されました。

 

 

⚫︎2021.10.8


「P.O.N.D.」オープニングパーティー出演

https://youtu.be/eP8YnX-Mq8w


渋谷PARCOにて行われたイベント P.O.N.D. のオープニングパーティーにライブ出演。個人としてはリリース後初ライブでした。

 

 

⚫︎2021.10.30


「Serial experiments huez」vol.01  supported by ONE STOP STUDIO TOKYO 出演


huez さん主催の オンラインXRライブイベント。からだポータブルから全曲歌いました。

 

 

⚫︎2021.12.11


SANRIO Virtual Fes in Sanrio Puroland 出演


憧れのサンリオピューロランド園内でライブさせていただきました。何も言わず急に誰も知らない新曲をやりました。

 

 

⚫︎2021.12.18


内山結愛 ソロ公演「Y」ゲスト出演


RAY 内山結愛 さんのソロ公演「Y」にゲストとして出演。ソロでムーヴを、内山さんと一緒にこの星にされるを歌いました。

 

 

⚫︎2021.12.22


内山結愛 - Y   ミュージックビデオ公開

https://youtu.be/5dMWZjXguvo


内山結愛 さんの初ソロ曲として「Y」を作詞・作曲・編曲しました。

 

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メディア

 

・2021.1.13 J-WAVE SONAR MUSIC 出演

・2021.1.15 TOKION インタビュー

・2021.1.28 ユリイカ2021年2月号 特集 坂元裕二 寄稿

・2021.4 ことばと 寄稿

・2021.5.18 TOKYO MX 69号室の住人 出演

・2021.5.20 ミュージック・マガジン6月号 インタビュー

・2021.5.25 スペースシャワーTVスペシャのヨルジュウ♪ インタビュー出演

・2021.5.26 TBSラジオ アフター6ジャンクション 出演

・2021.5.26 bounce インタビュー

・2021.5.26 音楽ナタリー インタビュー

・2021.5.28 装苑 「私の空想の素」特集 掲載

・2021.5.28 MG インタビュー

・2021.5.29 VVmagazine 根本凪さんとの対談

・2021.6.2 SPICE インタビュー

・2021.6.3 logirl 奥森皐月の公私混同 出演

・2021.6.15 MUSICA7月号 インタビュー

・2021.6.18 Soundmain インタビュー

・2021.6.28 ZIP-FM LACHIC CENTURY SESSION 出演

・2021.7.11 J-WAVE TOKYO HOT 100 出演

・2021.7.28 anan 「新世代カルチャー」特集 掲載

・2021.7.28 VOGUE JAPAN Z世代が見据える、「私たちの未来予想図」掲載

・2021.7.28 bayfm 78 musi-curate 出演

・2021.8.2 K-mix Wiz. 出演

・2021.9.6 J-WAVE SONAR MUSIC 嵐トリビュート コメント+カバーオンエア

・2021.12.16 MUSICA アンケート掲載

 

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 ここでは今年やったことをまとめたので、おそらく②で感想を書きます。

2021.7.1

 7月1日だ。びっくりだ。もう7月になってしまった。7月は好きだ。私の好きな数字は7だ。誕生日もあるし、ラッキーセブンだから。自分と同じ日に生まれた(歳には差がある)アイドルもそれと全く同じことを言っているのを見て、7月生まれの人が言いがちな台詞なのかも思ったことがある。理由になりやすいとは思うけれど、みんながみんな、誕生月の数字を好きになるわけではないだろうから。

 夏はあんまり好きじゃない。暑いより寒い方が得意だ。夏と冬どっちが好き?とか、暑いのと寒いのどっちが得意?と聞かれたら、迷わず「暑い夏は嫌いだ」と答える。人間は熱を生み出すことは自発的にできるし、そうでなくても、寒かったら着ればいいから。リアルクローズにとって現実的かはともかく、着るのは無限にできる。けれど反対に、冷たさは自分では生み出せない。できるとしても、汗をかいて体温を下げようとするだけで、冷たさが発生するわけじゃない。暑くて脱いでも、脱ぐのは無限じゃない。皮膚やその感覚までは脱げないから。限界まで、つまり素っ裸になったところで、照りつける日差しは直に迫ってくるだけだから。だから暑い夏の方が嫌いだ。そう答えていた。こうして書いてみると、なんだか感情がないみたいで気持ちが悪いなと思った。

 でも今年は、概念としての夏は好きになってきた気がする。私が本当は"Summer"みたいなものを嫌いじゃないということを、表に出すのが恥ずかしくなくなってきた。まあ夏らしいことは今の私の身には起こっていないから、まだわからない。夏は要素が多いから好くのも嫌うのも簡単だ。

 考えてみると、夏らしいことなんかここ数年、した覚えがないのだ。夏の季語になりそうな、海だとかアイスクリームだとかそういったものの記憶は案外、夏とは結びついていない。

 私が最後に海に行ったのは昨年の3月だった。二人で行った。まだまだ冷たい風の吹く海辺でいろいろな話をした。内的な話だった。もしもあの日が、日差しの強く照りつける夏のど真ん中だったら、話す内容まで違っていたかもしれない。あの日も、天気は良かった。そして海は青かったけれど、寒かった。だから裸足を海水につけたりしなかったし、アイスクリームやかき氷を食べることもなかった。

 つまり夏が夏らしくあるためにはやっぱり暑くなければいけないし、逆に、季節が夏でなくとも、暑ささえあれば夏のようになるということだろうか。

 


 なんの話をしているんだろう。ぶっちゃけ、昨日の私が「明日はブログを書く」と決めたから今日の私がこれを書かされているだけで、何も書きたいことはない。

 今から書くことも、書きたいわけではないけれど、今月とも関わりのある話だから、今書いておく。ここまでは季節のご挨拶だったということにして。

 


 2021年5月26日、はじめてのCDリリースを行った。ソロの新曲のみで構成された『からだポータブル』、新曲含むコラボ曲のみで構成された『放るアソート』の2枚同時リリースだ。

 ありがたいことに、たくさん取材をしていただいたから、このリリースについて、ここで話すようなことはない。ただ、今日が7月だと気づいたときはじめに抱いたのは、18歳になる前にリリースができてよかったな〜という漠然とした達成感だった。それを一応、せっかくだから、書いておこうかなと思った。

 別に、18歳になったら何かがあるわけではなくて、これが19歳でも20歳でも同じことだったと思うけれど、できるなら早い方がよいのは当然そうだと思って、そのときたまたま17歳だったから、17歳ですと言えるうちにリリースしたかった。だからできて嬉しい。そんだけです。

 これはリリースとは全く関係のない、単なる年齢の話だけれど、今月私は18歳になる。歳をとりたくないとは思わない。むしろもっと一足飛びに歳をとってしまいたい。18歳になったら投票もできるし、結婚もできるし、R-18のコンテンツだって見られるようになる。でもそういう、大きな区切りみたいなものから逃れたい。区切りを迎えたとき、めでたく思う気持ちは大いにあるけれど、なんとなく恥ずかしくなる。早く歳をとって、全部できる状態になってからスタートしたい。だから30歳になりたいと言った。まあでもそれも正しくはないだろう。

 


 こんなに何もない文章を書いたのは久しぶりだ、次はちゃんとしよっ❕

(マジ)今までで一番マジ

 まずはじめに、今ここで書くことは今の自分の考えでしかなくて、一年後、二年後、なんなら数分後の自分でさえ、同じ考えを持っているとは限らないことを示しておく。

 つぎに、いつものことだが、思ったことを思った順に、というのは流石に嘘で、もう少し気にしているがほとんどそんなテンションで書いているから、ぐちゃぐちゃだと思う。俺の心はいつもぐちゃぐちゃだから、まあそんなものかもしれない。

 あとすごく長い。めちゃめちゃ長い。なのに詩的な要素とか、ストーリー性とか面白みがひとつもなく、ただ考えを書いたまでで、何回も同じことを言っており、それに気づいているのに直す気も起こらず投稿した。でも読んでくれたらありがたいと思う。もしかしたらのちのち書き直すかもしれない。

 


 私は今、自分の中では一応、ノンバイナリーという立場をとっているつもりだ。女でも男でもあるような女でも男でもないような何でもないような感じがしている。そんな雰囲気をTwitterInstagramで小出しにしてきた。

 承知してほしいという思いはありつつも、今自分をいろいろな形で認識しているフォロワーらに「自分をこう扱ってくれ」と強く訴えたいわけではなかったし、強く訴えるほどの自信もなかったから(これらは今も変わらない)、小出しに、言うなれば匂わせのようなことをしてきた。

 わざわざこんなことを書くまで、フォロワーらがどのくらい私の匂わせを意識していたのかは、こちらにはわからないところだ。私としてはそんなつもりもなかったが、もしかしたら傍目にはごく穏やかな香りで、とても知ってほしそうには見えていなかったかもしれない。私からすれば毎回の匂わせは一世一代の、と意気込んでやっていることだったから、決してそんなつもりはなかったけれど。

 表明する上ではわかりやすいからノンバイナリーという言葉を使っているものの、それが自分にとって適切なのかはよくわからない。あえて言葉を当てはめるなら一番近いのだろうが、ノンバイナリーという言葉を自分事であるとも、それほど感じない。そもそもこの言葉自体ごく限定的な意味で使われるわけでもなく、あまり親近感を感じる言葉ではないのだろうか。

 もっと適する言葉を探そうにも、そもそも自分がどういう状態なのか、はっきりとはわかっていない。そういうふらふらした自分が、他人に説明をするときに使う言葉として「ノンバイナリー」がそこそこ便利ということだ。でもそれより完璧なカテゴリを求めようとも思わない。ただまあそうすると、自分のことを話すには難しいなといつもいつも考え込んでいる。

 今回は文字数のことも考えて、ノンバイナリーという言葉を使う。

 


 はっきり言って、私の体は、なんて言うのが正しいのかわからないが、女性の体だ。小学校、中学校生活は女性のつもりで送ってきた。

 その過程で、いつだったか、あー自分って好きになるの異性だけじゃないかもなあと思ったタイミングはあったのだが、性的指向は自分の性自認を疑う理由にはならないから、そのときは改めて考えたりはしなかった。

 今考えてみるとその当時も、他人や社会からいわゆる女性性を求められはしても、自発的に女でありたいと思ったことはなかったような気がする。

 もともと自分は、いわゆる女性的と形容されるタイプではなかったとも思う。それでも女性は女性らしい方がよいというのはよく聞いていた話で、それにそぐわない自分は、自虐の対象でもあった。

 諭吉の名でTwitterアカウントを持ってからも、「もうすぐJKになるのに」などと投稿したことがある。それは若い女性である自分が(いわゆる)若い女性らしくないことに対する自虐だ。それにプラスして、平然と自虐をすることによって新しい立ち位置を築くという、安心するための行為だった。それは逆に言えば、自分を、女として生きる道に縛りつけることにもなる行いだったと思う。

 無論、「いわゆる女性的」でないことが女性でないことの根拠にはならないから、当時の自分が自分の性別を疑わなかったことが不自然かというとそうではない。ただ、選択肢を知っていたら、今の自分のような考え方になるのはもう少し早かったかもしれないと思う。早い方がよいとも思わないけれど。

 女性として生きてはいたけれど、なんらかの説明的な要素の中にも、自分の気持ちの中にも、自分が女である証拠を見つけたことはなかったように思える。けれどそれこそが自認の純粋な証拠であると捉えていた。(今でも、性自認にはそういった側面はあるように思える。理由をもって性別を判断するわけではないという側面。正直よくわからないけれど……。)

 ただ、そのときの私が女性だったのは、自分が女性である証拠は見つけられなかったけれど、かと言って、男性である証拠が見つかるわけでもなかったからだ。当時の私にとって、性別は女か男かしかなかった。

 ざっくりしているけれど、それほど疑問を持たなかった。私は女か男か以外の選択肢(選択したくてするばかりではないし、選択というより認識かもしれない)があることすら知らなかったのだから、疑問を持ちようもなかった。自虐こそすれど、自分が女性であること自体は、まあそういうものなのだろうと思っていた。(実際、人によって、そういうこともあるだろうとも思う。私もこの先はまだわからないし!)

 タイミングも、経緯も、あまりはっきりとは覚えていないが、やがて私は自分のことを、女でも男でもあるような、女でも男でもないような気がし始める。

 なにかきっかけがあったとしたら、自分の性的指向について(は割と普段からぐちぐち考えることが多かった)考えるうちに、性別にありうる形、つまり選択肢のことも、自然に知ることになっただけの話じゃないかと思う。

 それまで知らなかっただけで、自分の状態を心に収める上での解釈のやり方はたくさんあった。

 それを知った瞬間から私のスタンスが変わったということはなくて、はじめは知識として、頭の中にあり続けた。知識から実感に変わるきっかけ、やっぱりここの経緯をどうも覚えていないけれど、自分が性別の証拠を見つけられなかったことは、そのまま、見つけられなかったまま、心にしまえばよいのかもしれないと思うようになった。

 無理にひとつを選ばなくてもよいことを、もっと言えば、生活の中で、理由もしっくりくる感覚もなく女を選ばされることへの不安を、感じるようになった。

 今の私は男でも女でもあるのかもしれないし、男や女ではない何かなのかもしれないし、男でも女でも他の何かでもないのかもしれないと思う。そこを掘り下げる気になったりならなかったりする。この通り、結局あまりはっきりしていないのだが、はっきりしなくても大丈夫だろうと思うようになった。

 この先、私は女だ、私は男だ、と言い切りたくなることがあるかもしれないけれど、今無理して決めないことで、いつでもどれでも選べたらいいなと思う。

 そう思うようになってからは、言動も変わったと思う。自分自身の振る舞い以外にも、たとえば取材記事などで、自分を指す三人称は名前にしてもらうようになったりした。

 というようなのが、ざっくりした流れだ。今の状態を知ってほしいだけならこれを書く必要はなかったのだが、ちょっと、整理と記録をしてみました。

 


 女性性や男性性ということに関して、私はとても無知だ。

 さきほども書いたが、小学校、中学校生活は完全に女性のつもりで送ってきた。となれば、(少なくとも表向きが)女性同士のコミュニティに属する時間の方が長くなる。だから、今の自分の持つさまざまなことに対する考え方は、女性同士のコミュニティで育ってきた人と一致しやすいのかもしれないなと思う。つまり私には社会的な女性性が多くあるということなのかもしれないが、それってなんだろうとも思う。よくわかっていない。

 きっと自分の中には女性性も男性性も存在していて、しかし女性性や男性性は何がもとになっているのかわからず、社会的な定義以外に何かあるのか、社会的なものでしかないのかもよくわからない。これも単に知識がないだけだと思うけれど。

 女性にも男性にも女性性と男性性の両方があっておかしいことはなくて、けれどそうしたら女性性が女性性と呼ばれる理由や男性性が男性性と呼ばれる理由も私は知らないのだと気づいて、本当に知らないことばっかりだ。勉強しないといけない。

 


 正直、私はいつもいつもこういうことばかり考えている。他人から見られるたびに考え直して、女性として扱われるたびに結局のところ自分はなんなんだろう、そしてどういう立場を取るべきなんだろうと、そんなことばかり考えている。良くも悪くもだ。新しい知識も気持ちもないまま一人で考えまくったところで、何も変わらないはずだが。

 (ありがたいことに、)自分からは把握し得ない他者からも自分の存在を認識されることが増えてからは、さらによく考えるようになった。

 私はいろんな人がいろんなふうに私をみて、私のことを勝手に想像したり解釈したりしてくれたらよいと思っている。なにが本当なのかは関係なく、他人の思う私の像がいろんなふうに広がれば嬉しいと思う。

 だからたまに混乱する。別に、これまで通り自分が女性だと思われていたところで、大抵の場所では問題が起こらないようにも思えるからだ。

 たとえば、私を女性として扱う他者が私に対し、異常に女性性を求めたり、「女性たるもの」と行動を制限したとすればそれは、私が女性であるかそうでないかの枠を超えた問題であり、実際には女性でないのならば解決する、というものでもない。しかし、もしも単に性別に関して勘違いが起こっていて、ただ自分を女性と呼ばれたとしてそれによって、私は何を不安に思うのだろうか。

 たしかに不安に思っているのだ。けれど、いったい何が不安なのか、わからない。真偽関係なく、いかようにも見られたいのではなかったのか?

 逆に、「いかようにも見られたい」からこそ、女性であることを不安に思っているのかもしれないと思うこともある。それこそ、真偽関係なくいかようにも見られたいからこそ、他者が私をいろいろなふうに見るためにその選択肢を提案しているだけで、真には女なのかも……と思うことがある。これについては今も考えている。よくわからないと思う。けれど、先天的か後天的かはともかく、自分の性別がひとつに決まっていることにしっくりこない気持ちを認識してしまったわけで、漠然と女性だった頃に戻ることはなかった。戻りたいと思わなかった。

 今回こんな文章を書いてみてはいるものの、今後私が私を女性扱いする人に出会っても、わざわざ「私はノンバイナリーなんです」とは言わないんじゃないかと思う。私を女性と呼ぶツイートを見つけては訂正して回らなければならないほどの緊急性も、私は感じていないと思う。けれど、私はこれを書くことをずっと考えていた。結果、書いたのは今だったけれど、ずっと考えていた。

 ではどうして書きたかったのか。はじめに書いた通り、承知してほしかったのかもしれない。理解するとか認める(変な言い方だ)とかは一旦置いておいて、とりあえず承知をしてほしいと思った。じゃあどうして承知してほしいんだろう。いかようにも見られたいんじゃなかったのか。

 フォロワーのみんなが私の性別をどう認識しているかなんて、アンケートを取ったわけでもないから、わからない。きっと色々だろう。以前から察していた人も、これを読んではじめて知った人もいるだろう。諭吉の性別なんか考えたこともねえという人も、考えたこともないしこれからも考えないという人もいるかもしれない。

 私を取り巻くすべての人がこの文章を読むわけじゃないこともわかっている。だからきっとこれからも、一部の人は私をノンバイナリーだと思うだろうし、一部の人は私を女だと思うかもしれない。

 ……と、書いていて今、まあそれはそれでいいのか、と思った。知ってほしい気持ちはある。でも、とりあえず文章にしてしまいたかっただけなのかもしれない。それですっきりしたかったわけだ。私は何事も文章にしないとダメなタイプだし。そのあとのことはそのあと考える。そういうことらしい。なんだこのまとめ方は。

 だからとりあえずこれをしたためて、それでそのあと女性と呼ばれたとして、まあそれはそれなのかもしれない。けれどそのとき、私の気持ちは、何も書いていなかった頃とは違う。ひとつは、その場で訂正しないことで、嘘をついている気持ちになるかもしれない。ひとつは、既に気持ちを文章として心に収めている安心感を思い出すかもしれない。また、良くも悪くもだ。

 


 それがどこから出てきたものなのかは置いておいて、世の中には女らしさや男らしさといった認識が存在している。そういった基準で見たとき、自分にはどちらの要素が多いのか、それは自分ではわからない。しかし少なくとも自分は、十年以上を女として生活してきたし、今現在も女の体を持っている。その事実はしばしば私を不安にさせる。

 女の体は、他人が私を女性と判断する理由になり得るし、そして、私自身がフラットでいたいと願う気持ちに水を差す。

 すべての行動に女の体を使わなければいけない分、仕草や口調など、まだ簡単に変えられそうな部分をどうにかしてみようと思うことがある。体の構造という点で既に女の方に振れている針をゼロに戻すために、あえて世間的に男らしいとされている要素を追加してみようと思うことがある。けれどそのときにまた、不安になる。

 自分は男性性という概念がどこから出てきたものなのか、実際にはどう存在すべきものなのかを知らないのに、どうしてそれを利用できるのか。他人から思い通りに認識されるためだったら、普段の自分が不安に思う概念も利用するのか。いつもの私だったら、女性らしさや男性らしさのことをなるべく考えないようにしているのに。

 ノンバイナリーと言いつつそこを比べることがおかしな話だとは思うけれど、今の自分は女性扱いされるよりは男性扱いされる方が安心する。そうすることで体がゼロになると思っているのだろう。

 あっだめだ面倒くさい……この辺はまた今度考えます。

 間違った知識や考えは知りたいので、ぜひおしえてください。

 


 ということで、まあ、女性扱いしても大丈夫だと思います。実際私の中にいわゆる女性性は存在しているのだろうし、女性扱いされてなにか事件が起こるわけではありません。男性扱いも同様です。私のことをどっちでもありどっちでもないというふうに認識する方はそのままそうしてくれた方が、こちらはしっくりかもしれません。

 性別のことに限らず、この世の全員は、自分が他人からどう認識されるかを選べません。それをポジティブに捉えたのが私のよく言う「いかようにも見られたい」という考え方で、本当に、いかようにも見られたいと思っています。先ほども書きましたが、性別についてもそうなのだと思います。書いているうちに、上記で悩んでいたことについて今のところの答えが出た気がするので以下に記します。

 性別についての「いかようにも見られたい」の「いかよう」とは、真偽関係なくあり得るすべての性別で見られたいということです。しかしこれまでの私の性別の見られ方は、「ノンバイナリー」か「女」かの二択であったと予想します。(便宜上こう書きましたが、ノンバイナリーを「一択」と数えるのは適切でないと思います。)私の匂わせを意識していた人の目には前者、私の以前までの生き方(と言っても「以前」はそこそこ遡るので、最近私を知った人はここを認識しないと思います)や身体的特徴という事実から考えていた人の目には後者で映っていたと思います。(他人の性別はその人が自称しない限り判断できないと考えて、私の性別を判断していなかった人もいたと思います。)

 「いかようにも見られたい」から今回の文章を書いたという側面はたしかにありました。体が女性であることを根拠に女性と判断されてきたことに関して、それ以外の見方を提案をしようとしたのだと思います。「ノンバイナリー」や「女性」というのは現在や過去における単なる事実で、「いかようにも見られる」にはそれ以外も含まれなければなりません。そこに事実は関係ありません。

 


 私は、結局のところ、ノンバイナリーだと思ってもらわなくてもよいかもしれないと感じているのだと思います。気持ちを知ってほしいというのは、必ずしも事実を知ってほしいということではありません。ただ、私の中の女性以外の可能性を知らしめたかったのです。それは事実存在しているし、もしそうでなくても、その方がきっと楽になると思いました。

 正直、この文章の中だけでも、矛盾が書いてあるんじゃないかと思います。書きながらわけがわからなくなったので、きっとおかしなところがあると思います。とにかく、私は自分のことを女でも男でもあるし女でも男でもないし何でもないし全部だと認識します。私が私をそう認識するのと同じように、みんなも私を好きに認識するものなんだろうと思います。

 ただ、可能性についてみんなで考えていたいと思いました。だから書いたんだと思います。

 


2021年5月24日

アイドルと大富豪について

 とあるバラエティ番組を見ていた。「アイドル以外の仕事をしたことがあるか」という司会者の問いに「アイドルしかやったことがない」「アイドル一筋」と答えるアイドルら、その甘美な響きにどきどきしてほうとため息をつきたい気持ちになった。それは気持ちだけで、実際には叫んでいた。「"アイドルしかやったことない"て!!!!!」。

 と同時に、自分はもう"アイドルしかやったことがない人間"にはなれないのだという事実に絶望した。

 アイドルにはなるかもしれない。可能性ということだけで言えば、アイドル含め、何にだって可能性がある。会社員になることも税理士になることも消防士になることもハウスキーパーになることもトリマーになることも、可能性はある。全然綺麗事でもなんでもなく、可能性だけは無限だ。しかし自分が今こうしてひとりで音楽をやったり、他人に音楽を提供したりしている時点で既に、"アイドルしかやったことがない人間"になる道は閉ざされた。戻ろうとすると、急に可能性がゼロになる。考えるまでもなく当然のことなのに、わかると虚しくなる。

 なぜだろうか?不思議だ。"シンガーソングライター(自分は、自分からシンガーソングライターを名乗ることはないのだが、"音楽家"だと行動が広すぎてもはやアイドルも含まれるかもしれないので、ここでは狭めた表現を使う)しかやったことがない人間"にそれ特有の魅力を感じることはないのに、"アイドルしかやったことがない人間"となれば途端に……途端になんだろうか。何がかはわからないが、かなりよい感じなのだ。

 自分の"アイドルという職業"への感情は屈折しすぎてもはや真っ直ぐに見えるくらいなので、自分でもよくわからない。わからないが。

 "アイドルしかやったことがない素敵なアイドル"とは……。スティックシュガーを何本分も溶かした甘いカプチーノに白いレース生地を突っ込んで、取り出して、その糸の集合が吸い上げたカプチーノに口付けて吸って、そうしてちょっとずつ体内に取り込むくらい、贅沢でかわいい感じがする。(贅沢というのは我々(我々?)アイドルを見る側にとってのであって、アイドルがアイドル以外をやったことがないのが贅沢なのではありません。)

 


 人気お笑いコンビの漫才のボケの言い分、「俺はかの有名な映画を観たことがない。お前は観たことがある。俺はいつでも観ることができるから、"観たことがある"状態にもなることができる。しかしお前はもう観てしまったから、"観たことがない人間"にはなれない。そういった意味で、観たことのない方により価値がある。」というような内容(だいたいこんなの、くらいですが)を思い出した。

 この漫才を初めて聴いた時にも、大笑いしつつ、どこかしんみり聴いてしまう部分があったのは、そういった不可逆に恐れをなしていたということなのかもしれない。

 


 それでも基本的に、知ることはめちゃくちゃいいことだ。

 みんなが面白いと思っているものの中で自分がまだ知らないもの。自分は、世の中の大半のものは、知りさえすれば好きになるのだと思っている節がある。

 好き嫌いはあるから、実際には全部が全部ということはないのだけれど、ドラマ、漫画、映画、アニメ、音楽、それらの一部は、現にとんでもない数の人々を熱狂させているのだから、たまたま自分にははまらないという可能性の方が低いのじゃないか。一番大好きなものにはならなくとも、大抵は好きになれるのではないか。まだ知らないだけで。と、思うことがある。

 だからこそ逆に、全部知って全部好きになるのが怖い。

 好きになるのは極端に楽しいが、極端に面倒なときがある。いろんなものを好きでいるのは疲れる。けれど豊かだ。しかし疲れる。それに、やっぱり、知らない時には戻れないのだから、知らない方が得をすることがあるのかもしれないと思うと、先の不可逆のことを考えて、踏み出す気を失う。

 


 俺はいまだに大富豪のルールを知らない。家族や、好きなアイドルたちが楽しそう〜にやってるのを見て、どんなゲームなんだろうかと気になっても、まだ知らないでいる。

https://twitter.com/kasaku_men/status/1327218670141984768?s=21

24時間以上残ります

おはようございます。諭吉佳作/menです。

 


俺はちょくちょくInstagramの質問を募集できる機能を利用しています。

 


はじめのころは誰ぞがやってるのを見てへーそういうもんかねなんて思って、六つの質問を収めたスクリーンショットに、それぞれの質問に対応する短い文章を回答として書いて、ストーリーズに載せていた。

今はなぜか機能通りに、一つ一つの質問をとりあげて相手側に通知がいくような方法で回答をしている。普通逆だと思うんだけどね。慣れてきたからこそ、機能として想定されている方法とは違う方法を見つけて実践する、って方が自然なんですけど。

それでも最初も今も、質問募集の機能を利用することの目的、目的というとちょっとひんやりし過ぎている、意義、これも冷たいか、良さですね。質問募集の機能のどこに良さを感じているかというのは変わらなくて、その中の一つに、他人からの質問に答えることで自分のことをはっきりさせられるというのがある。自分のスタンスとかその理由とか。まあもちろんそれだけではないんだけど。

考えたことなかったようなことを、わざわざ一に立ち返って考えることになったりするのがありがたい。まあ俺はそういう提起が自分の中から生まれる頻度が高い方だとは思うんだけど、それでもたとえば最近「好きな寿司は何か」なんて答えたけど、普段は半分自動的みたいに食べたいもの食べてるってだけで、あんまり考えたことなかったりする。や、まあこれはちょっと無理やり言いました。好きな寿司を一に立ち帰って考えることはないです。

聞かれてもいないのに補足を長文でしたりするのも、もしかしたら質問者の方からしたら恐怖を感じるのかもしれない(もしここにいらしたら伝えます、いつもすみません)のだが、俺にとっては俺のことをゆっくり考える時間というか、そしてそれを他人の目に触れてもよいくらい具体的な文章にすることで、より自分の中に確かなものとして残る、そういう実感が得られるわけですね。やった!

 


ところでなんでこんな話をし始めたのかというと、Instagramでの自分の振る舞いとはてなブログでの自分の振る舞いがそこそこ異なっているということについて、さっき初めて考えたからです。

振る舞いというか、シンプルに文章の書き方です。自分は文章を書くのが好きで、そうでなきゃさっき言ったみたいな、書くことで考えをまとめるなんてことしないと思うんですけど。それにしても、Instagramでの文章ははてなブログでの文章とは大きく違っている。

こんな話をすればお気づきかもしれないが、今日の俺はちょっと違う。今ここで書いているのはInstagramのストーリーズで俺が書きそうな文体で書いたはてなブログです。自分としてはそのつもりです。けどわりと自信がない。

Instagramのストーリーズでの俺の文章ってのは、まず「ら」行や「い」を省いた言葉を使う。「けれど」は「けど」になるし「していない」は「してない」。全部が全部ではないけど、こういうのを結構使う。そういう省いた言葉が今の時代において間違った言葉使いとされるのかされないのかはよく議論になるところだがそれは置いておいて、少なくともはてなブログで書いているときの俺は、絶対に省かない。もうこれは決めてるから、わざとなんらかの効果を狙っているんでもない限りは使わないようにしている。はず。確認してないのでわからないですけど。あとは「〇〇と言った」が「〇〇って言った」になるのとかもよくやる。

敬体と常体が入り混じるのはどちらも同じかもしれない。はてなブログの方でもちょくちょくあると思う。これが結構ブログっぽくていいよななんて思ってるんですよね。

TwitterとかInstagramとかはてなブログとかもしくはどこかの雑誌に寄稿するとか、載る場所によって書く文章が違うなんて当然のことなんだけど、どこでそのスイッチが切り替わるのかということを考えるとわりと妙だと思う。考えてやっていることなのかそうでないのかもわからないが、どちらを書いている時が自然だとか楽だとかそういうのはないと思う。

ただひとつぼんやりと決め手になっている気がするのは、ブログの文章は範囲選択やコピペができる、つまり入力された文字がずっと入力された文字として存在し続けるのだが、Instagramのストーリーズの文章ってのは入力して完了した瞬間に絵の中に溶け込んでしまうから、文字の自覚が薄い気がする。質問への回答でしかないという程度の自覚なのかもな〜と今思った。そうだ、質問されてそれに答えるんだから、そもそも人間同士なわけだ。そこが一番大きいでしょうね、勝手にぶつぶつ言ってるブログとちょっと違うのは。

InstagramTwitterで書いてる時って、わざわざ「。」をつけるのが気持ち悪いときがあって、スペースを代わりにすることが多いんだよね さすがにここでそれをやっちゃうと読みづらすぎるからやめました やろうと思ったんですけど

こういう再現のことを俺は擬態って呼ぶことがあるのだが、俺はTwitterでの振る舞いが一番わかりやす擬態かもしれないです。擬態と言っても擬態だから嘘とかそれでも本当とかそういうことは問題じゃなくて、ただ、ただなんでしょうね。俺はずっと矛盾してる気がするけど矛盾を許してることに安心してると思います。なんの話してたっけね。

書いてるうちによくわかんなくなっちゃったのでまた考えたいですね。

 


ばいば〜い✋

2019/men

 カーーーッ!来るはずのない年が来てしまった!と何故か思わせる2020年だ。20が二つ重なっているという見た目のポップさと、大規模な催しを予定しているが故に何かと言えば目印にされてきたこととが、何か不自然な感じを与え、とにかく不確定な感じを醸している。

 かと思えば、実際2020年に生きてみるとなんてことはない。当然だ。なんてことはないなんてことはわかっていた。でも思っていた以上になんてことはない。まだ序盤だから、「なんてことがある」はずはないのだ。わかっていても、書類に日付を書いた時、カレンダーを見た時、あらゆるところで2020が今だと思い出すたび、奥歯が一つ増えたような違和感がある。「ニイゼロニイゼロ」?二千二十年だろうが!このなんともキャッチーな数字に、僕の中身は追いついているんでしょうか……。


 ↑と書いたのが年明けすぐで、今はもう2月も後半である。2020にまだ慣れていないどころか、2019年14月だと思っている。

 別に2020のせいで、ということはないが、上に記したときよりも世の中と私が混乱している。ような気がする。混乱というか、もうこれは個人的な考え方とかを全く抜きにして、単純に流行病が怖くて、連日テレビが現状と予防法を報じ、別にそれがいたずらに不安を煽るとかそういうのでもなく、ただただ「病気はなるべくしたくないね」という話だ。みんな基本的に病気はなるべくしたくないのである。健康が一番。


 ところで、昨年はかなり大変な振り返りをした。2018年中に投稿した音楽と出演したライブすべてについて、三記事に渡って感想を書いた。2019年についても軽く記しておこうと思うのだが、今回はとりあえずリリースについて書いておく。

 ただご存知の通り、わたしの今年の単独リリースは「プロトタイプ-11」のみである。リリースなんてない!これは事実だが、事実として観測する以上に追及することはせず、コラボ曲や提供曲を並べておくこととする。


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⚫︎2019.1.3

運動 - abelest + 諭吉佳作/men

https://soundcloud.com/maltine-record/undou

マルチネレコーズよりリリースされた abelest さんのEP、「健康」に収録された曲。(各種音楽配信サービスからも配信しています。)


⚫︎2019.1.19

プロトタイプ-11

https://soundcloud.com/yukichikasaku/p-11/s-mJ4H1

わたしにも読みがわからない、かわいいタイトルの曲。わたしこれ好き。


⚫︎2019.6.26

形而上学的、魔法 - でんぱ組.inc

https://youtu.be/zFAgG0HIvWo

オイ!どうしてわたしがでんぱ組.incさんに曲を……!?!?!?!?と、今でも余裕で驚けるのですが、どうですか?(どうですか?)

作詞作曲をわたしが担当させていただき、編曲は KanadeYUK さんが担当されています。

もちろんCDも売っているしMVもあるしもう、どこでも聴けます。


⚫︎2019.10.1

動く物の園 - abelest & 諭吉佳作/men

https://linkco.re/UFpUaFzg

マルチネレコーズ『CUBE』出演に向けてつくった、「健康」の続編的な曲。ばかでかい空間を感じます。映像もございます。


⚫︎2019.10.4

むげん・ (with 諭吉佳作/men) - 崎山蒼志

https://smej.lnk.to/zzAG6

崎山蒼志 さんと、詞曲ごちゃごちゃにつくった曲。編曲は、ベース以外の打ち込みはわたしで、崎山さんはギターを弾きつつベースの打ち込みをされています。

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 コラボや提供、新しいことを体験できた年だった。一人でこねこねやるのも楽しいのですが、他人とのやりとりが重要になってくる制作も本当に楽しいし、感動するタイミングが多いです。

 一人のことに関して言えば、2月からはライブに小銭やMacBook(ちなみにAirです)を導入(それまではPAの方にCDを渡していた)、そして10月あたりからはLogic Pro Xを使い始めるという大事件。それまで使っていたiPhoneGarageBandには大変お世話になったため、丁重に謝辞を述べ、そして今現在ではまったく触っていない。これがなかなか、本当に大事件である。

 「iPhoneGarageBandでつくっています」と声高に言い張るつもりもなかったが、もちろん事実だから尋ねられればそう答えたし、iPhoneで音楽をつくるその手軽さや現代的とも言えるスタイルから興味を持ってもらうことも多かった。実際、そういったテーマのテレビ番組にも取り上げてもらった。そのわたしが、普通にMacBookを使い始めることは、(これはある意味、自意識過剰であると言えるが)自分の価値を自ら手放すようなことかもしれないと思っていた。「もしかしてわたしは、現代の”手軽な音楽”の象徴なのか?」というところにまで思考が行ってしまったが、まあそんなはずはなく、そもそもわたしはそんな目印をつけてもらえるほど有名じゃない!有名になるぞ〜〜、俺って有名になりたいんだろうか!よくわからない。


今年もよろしくお願いします。もう2月22日よ🐱(って書いたら日付が変わってしまった。)