諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

2021.7.1

 7月1日だ。びっくりだ。もう7月になってしまった。7月は好きだ。私の好きな数字は7だ。誕生日もあるし、ラッキーセブンだから。自分と同じ日に生まれた(歳には差がある)アイドルもそれと全く同じことを言っているのを見て、7月生まれの人が言いがちな台詞なのかも思ったことがある。理由になりやすいとは思うけれど、みんながみんな、誕生月の数字を好きになるわけではないだろうから。

 夏はあんまり好きじゃない。暑いより寒い方が得意だ。夏と冬どっちが好き?とか、暑いのと寒いのどっちが得意?と聞かれたら、迷わず「暑い夏は嫌いだ」と答える。人間は熱を生み出すことは自発的にできるし、そうでなくても、寒かったら着ればいいから。リアルクローズにとって現実的かはともかく、着るのは無限にできる。けれど反対に、冷たさは自分では生み出せない。できるとしても、汗をかいて体温を下げようとするだけで、冷たさが発生するわけじゃない。暑くて脱いでも、脱ぐのは無限じゃない。皮膚やその感覚までは脱げないから。限界まで、つまり素っ裸になったところで、照りつける日差しは直に迫ってくるだけだから。だから暑い夏の方が嫌いだ。そう答えていた。こうして書いてみると、なんだか感情がないみたいで気持ちが悪いなと思った。

 でも今年は、概念としての夏は好きになってきた気がする。私が本当は"Summer"みたいなものを嫌いじゃないということを、表に出すのが恥ずかしくなくなってきた。まあ夏らしいことは今の私の身には起こっていないから、まだわからない。夏は要素が多いから好くのも嫌うのも簡単だ。

 考えてみると、夏らしいことなんかここ数年、した覚えがないのだ。夏の季語になりそうな、海だとかアイスクリームだとかそういったものの記憶は案外、夏とは結びついていない。

 私が最後に海に行ったのは昨年の3月だった。二人で行った。まだまだ冷たい風の吹く海辺でいろいろな話をした。内的な話だった。もしもあの日が、日差しの強く照りつける夏のど真ん中だったら、話す内容まで違っていたかもしれない。あの日も、天気は良かった。そして海は青かったけれど、寒かった。だから裸足を海水につけたりしなかったし、アイスクリームやかき氷を食べることもなかった。

 つまり夏が夏らしくあるためにはやっぱり暑くなければいけないし、逆に、季節が夏でなくとも、暑ささえあれば夏のようになるということだろうか。

 


 なんの話をしているんだろう。ぶっちゃけ、昨日の私が「明日はブログを書く」と決めたから今日の私がこれを書かされているだけで、何も書きたいことはない。

 今から書くことも、書きたいわけではないけれど、今月とも関わりのある話だから、今書いておく。ここまでは季節のご挨拶だったということにして。

 


 2021年5月26日、はじめてのCDリリースを行った。ソロの新曲のみで構成された『からだポータブル』、新曲含むコラボ曲のみで構成された『放るアソート』の2枚同時リリースだ。

 ありがたいことに、たくさん取材をしていただいたから、このリリースについて、ここで話すようなことはない。ただ、今日が7月だと気づいたときはじめに抱いたのは、18歳になる前にリリースができてよかったな〜という漠然とした達成感だった。それを一応、せっかくだから、書いておこうかなと思った。

 別に、18歳になったら何かがあるわけではなくて、これが19歳でも20歳でも同じことだったと思うけれど、できるなら早い方がよいのは当然そうだと思って、そのときたまたま17歳だったから、17歳ですと言えるうちにリリースしたかった。だからできて嬉しい。そんだけです。

 これはリリースとは全く関係のない、単なる年齢の話だけれど、今月私は18歳になる。歳をとりたくないとは思わない。むしろもっと一足飛びに歳をとってしまいたい。18歳になったら投票もできるし、結婚もできるし、R-18のコンテンツだって見られるようになる。でもそういう、大きな区切りみたいなものから逃れたい。区切りを迎えたとき、めでたく思う気持ちは大いにあるけれど、なんとなく恥ずかしくなる。早く歳をとって、全部できる状態になってからスタートしたい。だから30歳になりたいと言った。まあでもそれも正しくはないだろう。

 


 こんなに何もない文章を書いたのは久しぶりだ、次はちゃんとしよっ❕

(マジ)今までで一番マジ

 まずはじめに、今ここで書くことは今の自分の考えでしかなくて、一年後、二年後、なんなら数分後の自分でさえ、同じ考えを持っているとは限らないことを示しておく。

 つぎに、いつものことだが、思ったことを思った順に、というのは流石に嘘で、もう少し気にしているがほとんどそんなテンションで書いているから、ぐちゃぐちゃだと思う。俺の心はいつもぐちゃぐちゃだから、まあそんなものかもしれない。

 あとすごく長い。めちゃめちゃ長い。なのに詩的な要素とか、ストーリー性とか面白みがひとつもなく、ただ考えを書いたまでで、何回も同じことを言っており、それに気づいているのに直す気も起こらず投稿した。でも読んでくれたらありがたいと思う。もしかしたらのちのち書き直すかもしれない。

 


 私は今、自分の中では一応、ノンバイナリーという立場をとっているつもりだ。女でも男でもあるような女でも男でもないような何でもないような感じで生きている。そんな雰囲気をTwitterInstagramで小出しにしてきた。

 承知してほしいという思いはありつつも、今自分をいろいろな形で認識しているフォロワーらに「自分をこう扱ってくれ」と強く訴えたいわけではなかったし、強く訴えるほどの自信もなかったから(これらは今も変わらない)、小出しに、言うなれば匂わせのようなことをしてきた。

 わざわざこんなことを書くまで、フォロワーらがどのくらい私の匂わせを意識していたのかは、こちらにはわからないところだ。私としてはそんなつもりもなかったが、もしかしたら傍目にはごく穏やかな香りで、とても知ってほしそうには見えていなかったかもしれない。私からすれば毎回の匂わせは一世一代の、と意気込んでやっていることだったから、決してそんなつもりはなかったけれど。

 表明する上ではわかりやすいからノンバイナリーという言葉を使っているものの、それが自分にとって適切なのかはよくわからない。あえて言葉を当てはめるなら一番近いのだろうが、ノンバイナリーという言葉を自分事であるとも、それほど感じない。そもそもこの言葉自体広い意味で使われているわけで、あまり親近感を感じる言葉ではないのだろうか。

 もっと適する言葉を探そうにも、そもそも自分がどういう状態なのか、はっきりとはわかっていない。そういうふらふらした自分が、他人に説明をするときに使う言葉として「ノンバイナリー」がそこそこ便利ということだ。でもそれより完璧なカテゴリを求めようとも思わない。ただまあそうすると、自分のことを話すには難しいなといつもいつも考え込んでいる。

 今回は文字数のことも考えて、ノンバイナリーという言葉を使う。

 


 はっきり言って、私の体は女性の体だ。小学校、中学校生活は女性のつもりで送ってきた。

 その過程で、いつだったか、あー自分って好きになるの異性だけじゃないかもなあと思ったタイミングはあったのだが、性的指向は自分の性自認を疑う理由にはならないから、そのときは改めて考えたりはしなかった。

 今考えてみるとその当時も、他人や社会からいわゆる女性性を求められはしても、自発的に女でありたいと思ったことはなかったような気がする。

 もともと自分は、いわゆる女性的と形容されるタイプではなかったとも思う。それでも女性は女性らしい方がよいというのはよく聞いていた話で、それにそぐわない自分は、自虐の対象でもあった。

 諭吉の名でTwitterアカウントを持ってからも、「もうすぐJKになるのに」などと投稿したことがある。それは若い女性である自分が(いわゆる)若い女性らしくないことに対する自虐だ。それにプラスして、平然と自虐をすることによって新しい立ち位置を築くという、安心するための行為だった。それは逆に言えば、自分を、女として生きる道に縛りつけることにもなる行いだったと思う。

 無論、「いわゆる女性的」でないことが女性でないことの根拠にはならないから、当時の自分が自分の性別を疑わなかったことが不自然かというとそうではない。ただ、選択肢を知っていたら、今の自分のような考え方になるのはもう少し早かったかもしれないと思う。早い方がよいとも思わないけれど。

 女性として生きてはいたけれど、なんらかの説明的な要素の中にも、自分の気持ちの中にも、自分が女である証拠を見つけたことはなかったように思える。けれどそれこそが自認の純粋な証拠であると捉えていた。(今でも、性自認にはそういった側面はあるように思える。理由をもって性別を判断するわけではないという側面。正直よくわからないけれど……。)

 ただ、そのときの私が女性だったのは、自分が女性である証拠は見つけられなかったけれど、かと言って、男性である証拠が見つかるわけでもなかったからだ。当時の私にとって、性別は女か男かしかなかった。

 ざっくりしているけれど、それほど疑問を持たなかった。私は女か男か以外の選択肢(選択したくてするばかりではないし、選択というより認識かもしれない)があることすら知らなかったのだから、疑問を持ちようもなかった。自虐こそすれど、自分が女性であること自体は、まあそういうものなのだろうと思っていた。(実際、人によって、そういうこともあるだろうとも思う。私もこの先はまだわからないし!)

 タイミングも、経緯も、あまりはっきりとは覚えていないが、やがて私は自分のことを、女でも男でもあるような、女でも男でもないような気がし始める。

 なにかきっかけがあったとしたら、自分の性的指向について(は割と普段からぐちぐち考えることが多かった)考えるうちに、性別にありうる形、つまり選択肢のことも、自然に知ることになっただけの話じゃないかと思う。

 それまで知らなかっただけで、自分の状態を心に収める上での解釈のやり方はたくさんあった。

 それを知った瞬間から私のスタンスが変わったということはなくて、はじめは知識として、頭の中にあり続けた。知識から実感に変わるきっかけ、やっぱりここの経緯をどうも覚えていないけれど、自分が性別の証拠を見つけられなかったことは、そのまま、見つけられなかったまま、心にしまえばよいのかもしれないと思うようになった。

 無理にひとつを選ばなくてもよいことを、もっと言えば、生活の中で、理由もしっくりくる感覚もなく女を選ばされることへの不安を、感じるようになった。

 今の私は男でも女でもあるのかもしれないし、男や女ではない何かなのかもしれないし、男でも女でも他の何かでもないのかもしれないと思う。そこを掘り下げる気になったりならなかったりする。この通り、結局あまりはっきりしていないのだが、はっきりしなくても大丈夫だろうと思うようになった。

 この先、私は女だ、私は男だ、と言い切りたくなることがあるかもしれないけれど、今無理して決めないことで、いつでもどれでも選べたらいいなと思う。

 そう思うようになってからは、言動も変わったと思う。自分自身の振る舞い以外にも、たとえば取材記事などで、自分を指す三人称は名前にしてもらうようになったりした。

 というようなのが、ざっくりした流れだ。今の状態を知ってほしいだけならこれを書く必要はなかったのだが、ちょっと、整理と記録をしてみました。

 


 女性性や男性性ということに関して、私はとても無知だ。

 さきほども書いたが、小学校、中学校生活は完全に女性のつもりで送ってきた。となれば、(少なくとも表向きが)女性同士のコミュニティに属する時間の方が長くなる。だから、今の自分の持つさまざまなことに対する考え方は、女性同士のコミュニティで育ってきた人と一致しやすいのかもしれないなと思う。つまり私には社会的な女性性が多くあるということなのかもしれないが、それってなんだろうとも思う。よくわかっていない。

 きっと自分の中には女性性も男性性も存在していて、しかし女性性や男性性は何がもとになっているのかわからず、社会的な定義以外に何かあるのか、社会的なものでしかないのかもよくわからない。これも単に知識がないだけだと思うけれど。

 女性にも男性にも女性性と男性性の両方があっておかしいことはなくて、けれどそうしたら女性性が女性性と呼ばれる理由や男性性が男性性と呼ばれる理由も私は知らないのだと気づいて、本当に知らないことばっかりだ。

 

 こういう話をするとよく、"当事者"みたいな感じになるけれど、私は自分のことしかわかっていない。何も知らない。知らなきゃいけないことがたくさんあるだろうと思う。もしよかったらみんなも、いろんなことを教えてください。

 


 正直、私はいつもいつもこういうことばかり考えている。他人から見られるたびに考え直して、女性として扱われるたびに結局のところ自分はなんなんだろう、そしてどういう立場を取るべきなんだろうと、そんなことばかり考えている。良くも悪くもだ。新しい知識も気持ちもないまま一人で考えまくったところで、何も変わらないはずだが。

 (ありがたいことに、)自分からは把握し得ない他者からも自分の存在を認識されることが増えてからは、さらによく考えるようになった。

 私はいろんな人がいろんなふうに私をみて、私のことを勝手に想像したり解釈したりしてくれたらよいと思っている。なにが本当なのかは関係なく、他人の思う私の像がいろんなふうに広がれば嬉しいと思う。

 だからたまに混乱する。別に、これまで通り自分が女性だと思われていたところで、大抵の場所では問題が起こらないようにも思えるからだ。

 たとえば、私を女性として扱う他者が私に対し、異常に女性性を求めたり、「女性たるもの」と行動を制限したとすればそれは、私が女性であるかそうでないかの枠を超えた問題であり、実際には女性でないのならば解決する、というものでもない。しかし、もしも単に性別に関して勘違いが起こっていて、ただ自分を女性と呼ばれたとしてそれによって、私は何を不安に思うのだろうか。

 たしかに不安に思っているのだ。けれど、いったい何が不安なのか、わからない。真偽関係なく、いかようにも見られたいのではなかったのか?

 逆に、「いかようにも見られたい」からこそ、女性であることを不安に思っているのかもしれないと思うこともある。それこそ、真偽関係なくいかようにも見られたいからこそ、他者が私をいろいろなふうに見るためにその選択肢を提案しているだけで、真には女なのかも……と思うことがある。これについては今も考えている。よくわからないと思う。けれど、先天的か後天的かはともかく、自分の性別がひとつに決まっていることにしっくりこない気持ちを認識してしまったわけで、漠然と女性だった頃に戻ることはなかった。戻りたいと思わなかった。

 今回こんな文章を書いてみてはいるものの、今後私が私を女性扱いする人に出会っても、わざわざ「私はノンバイナリーなんです」とは言わないんじゃないかと思う。私を女性と呼ぶツイートを見つけては訂正して回らなければならないほどの緊急性も、私は感じていないと思う。けれど、私はこれを書くことをずっと考えていた。結果、書いたのは今だったけれど、ずっと考えていた。

 ではどうして書きたかったのか。はじめに書いた通り、承知してほしかったのかもしれない。理解するとか認めるとかは一旦置いておいて、とりあえず承知をしてほしいと思った。じゃあどうして承知してほしいんだろう。いかようにも見られたいんじゃなかったのか。

 フォロワーのみんなが私の性別をどう認識しているかなんて、アンケートを取ったわけでもないから、わからない。きっと色々だろう。以前から察していた人も、これを読んではじめて知った人もいるだろう。諭吉の性別なんか考えたこともねえという人も、考えたこともないしこれからも考えないという人もいるかもしれない。

 私を取り巻くすべての人がこの文章を読むわけじゃないこともわかっている。だからきっとこれからも、一部の人は私をノンバイナリーだと思うだろうし、一部の人は私を女だと思うかもしれない。

 ……と、書いていて今、まあそれはそれでいいのか、と思った。知ってほしい気持ちはある。でも、とりあえず文章にしてしまいたかっただけなのかもしれない。それですっきりしたかったわけだ。私は何事も文章にしないとダメなタイプだし。そのあとのことはそのあと考える。そういうことらしい。なんだこのまとめ方は。

 だからとりあえずこれをしたためて、それでそのあと女性と呼ばれたとして、まあそれはそれなのかもしれない。けれどそのとき、私の気持ちは、何も書いていなかった頃とは違う。ひとつは、その場で訂正しないことで、嘘をついている気持ちになるかもしれない。ひとつは、既に気持ちを文章として心に収めている安心感を思い出すかもしれない。また、良くも悪くもだ。

 


 それがどこから出てきたものなのかは置いておいて、世の中には女らしさや男らしさといった認識が存在している。そういった基準で見たとき、自分にはどちらの要素が多いのか、それは自分ではわからない。しかし少なくとも自分は、十年以上を女として生活してきたし、今現在も女の体を持っている。その事実はしばしば私を不安にさせる。

 女の体は、他人が私を女性と判断する理由になり得るし、そして、私自身がフラットでいたいと願う気持ちに水を差す。

 すべての行動に女の体を使わなければいけない分、仕草や口調など、まだ簡単に変えられそうな部分をどうにかしてみようと思うことがある。体の構造という点で既に女の方に振れている針をゼロに戻すために、あえて世間的に男らしいとされている要素を追加してみようと思うことがある。けれどそのときにまた、不安になる。

 自分は男性性という概念がどこから出てきたものなのか、実際にはどう存在すべきものなのかを知らないのに、どうしてそれを利用できるのか。他人から思い通りに認識されるためだったら、普段の自分が不安に思う概念も利用するのか。いつもの私だったら、女性らしさや男性らしさのことをなるべく考えないようにしているのに。

 ノンバイナリーと言いつつそこを比べることがおかしな話だとは思うけれど、今の自分は女性扱いされるよりは男性扱いされる方が安心する。そうすることで体がゼロになると思っているのだろう。

 あっだめだ面倒くさい……この辺はまた今度考えます。

 間違った知識や考えは知りたいので、ぜひおしえてください。

 


 ということで、まあ、女性扱いしても大丈夫だと思います。実際私の中にいわゆる女性性は存在しているのだろうし、女性扱いされてなにか事件が起こるわけではありません。男性扱いも同様です。私のことをどっちでもありどっちでもないというふうに認識する方はそのままそうしてくれた方が、こちらはしっくりかもしれません。

 性別のことに限らず、この世の全員は、自分が他人からどう認識されるかを選べません。それをポジティブに捉えたのが私のよく言う「いかようにも見られたい」という考え方で、本当に、いかようにも見られたいと思っています。先ほども書きましたが、性別についてもそうなのだと思います。書いているうちに、上記で悩んでいたことについて今のところの答えが出た気がするので以下に記します。

 性別についての「いかようにも見られたい」の「いかよう」とは、真偽関係なくあり得るすべての性別で見られたいということです。しかしこれまでの私の性別の見られ方は、「ノンバイナリー」か「女」かの二択であったと予想します。(便宜上こう書きましたが、ノンバイナリーを「一択」と数えるのは適切でないと思います。)私の匂わせを意識していた人の目には前者、私の以前までの生き方(と言っても「以前」はそこそこ遡るので、最近私を知った人はここを認識しないと思います)や身体的特徴という事実から考えていた人の目には後者で映っていたと思います。(他人の性別はその人が自称しない限り判断できないと考えて、私の性別を判断していなかった人もいたと思います。)

 「いかようにも見られたい」から今回の文章を書いたという側面はたしかにありました。体が女性であることを根拠に女性と判断されてきたことに関して、それ以外の見方を提案をしようとしたのだと思います。「ノンバイナリー」や「女性」というのは現在や過去における単なる事実で、「いかようにも見られる」にはそれ以外も含まれなければなりません。そこに事実は関係ありません。

 


 私は、結局のところ、ノンバイナリーだと思ってもらわなくてもよいかもしれないと感じているのだと思います。気持ちを知ってほしいというのは、必ずしも事実を知ってほしいということではありません。ただ、私の中の女性以外の可能性を知らしめたかったのです。それは事実存在しているし、もしそうでなくても、その方がきっと楽になると思いました。

 正直、この文章の中だけでも、矛盾が書いてあるんじゃないかと思います。書きながらわけがわからなくなったので、きっとおかしなところがあると思います。とにかく、私は自分のことを女でも男でもあるし女でも男でもないし何でもないし全部だと認識します。私が私をそう認識するのと同じように、みんなも私を好きに認識するものなんだろうと思います。

 ただ、可能性についてみんなで考えていたいと思いました。だから書いたんだと思います。

 


2021年5月24日

アイドルと大富豪について

 とあるバラエティ番組を見ていた。「アイドル以外の仕事をしたことがあるか」という司会者の問いに「アイドルしかやったことがない」「アイドル一筋」と答えるアイドルら、その甘美な響きにどきどきしてほうとため息をつきたい気持ちになった。それは気持ちだけで、実際には叫んでいた。「"アイドルしかやったことない"て!!!!!」。

 と同時に、自分はもう"アイドルしかやったことがない人間"にはなれないのだという事実に絶望した。

 アイドルにはなるかもしれない。可能性ということだけで言えば、アイドル含め、何にだって可能性がある。会社員になることも税理士になることも消防士になることもハウスキーパーになることもトリマーになることも、可能性はある。全然綺麗事でもなんでもなく、可能性だけは無限だ。しかし自分が今こうしてひとりで音楽をやったり、他人に音楽を提供したりしている時点で既に、"アイドルしかやったことがない人間"になる道は閉ざされた。戻ろうとすると、急に可能性がゼロになる。考えるまでもなく当然のことなのに、わかると虚しくなる。

 なぜだろうか?不思議だ。"シンガーソングライター(自分は、自分からシンガーソングライターを名乗ることはないのだが、"音楽家"だと行動が広すぎてもはやアイドルも含まれるかもしれないので、ここでは狭めた表現を使う)しかやったことがない人間"にそれ特有の魅力を感じることはないのに、"アイドルしかやったことがない人間"となれば途端に……途端になんだろうか。何がかはわからないが、かなりよい感じなのだ。

 自分の"アイドルという職業"への感情は屈折しすぎてもはや真っ直ぐに見えるくらいなので、自分でもよくわからない。わからないが。

 "アイドルしかやったことがない素敵なアイドル"とは……。スティックシュガーを何本分も溶かした甘いカプチーノに白いレース生地を突っ込んで、取り出して、その糸の集合が吸い上げたカプチーノに口付けて吸って、そうしてちょっとずつ体内に取り込むくらい、贅沢でかわいい感じがする。(贅沢というのは我々(我々?)アイドルを見る側にとってのであって、アイドルがアイドル以外をやったことがないのが贅沢なのではありません。)

 


 人気お笑いコンビの漫才のボケの言い分、「俺はかの有名な映画を観たことがない。お前は観たことがある。俺はいつでも観ることができるから、"観たことがある"状態にもなることができる。しかしお前はもう観てしまったから、"観たことがない人間"にはなれない。そういった意味で、観たことのない方により価値がある。」というような内容(だいたいこんなの、くらいですが)を思い出した。

 この漫才を初めて聴いた時にも、大笑いしつつ、どこかしんみり聴いてしまう部分があったのは、そういった不可逆に恐れをなしていたということなのかもしれない。

 


 それでも基本的に、知ることはめちゃくちゃいいことだ。

 みんなが面白いと思っているものの中で自分がまだ知らないもの。自分は、世の中の大半のものは、知りさえすれば好きになるのだと思っている節がある。

 好き嫌いはあるから、実際には全部が全部ということはないのだけれど、ドラマ、漫画、映画、アニメ、音楽、それらの一部は、現にとんでもない数の人々を熱狂させているのだから、たまたま自分にははまらないという可能性の方が低いのじゃないか。一番大好きなものにはならなくとも、大抵は好きになれるのではないか。まだ知らないだけで。と、思うことがある。

 だからこそ逆に、全部知って全部好きになるのが怖い。

 好きになるのは極端に楽しいが、極端に面倒なときがある。いろんなものを好きでいるのは疲れる。けれど豊かだ。しかし疲れる。それに、やっぱり、知らない時には戻れないのだから、知らない方が得をすることがあるのかもしれないと思うと、先の不可逆のことを考えて、踏み出す気を失う。

 


 俺はいまだに大富豪のルールを知らない。家族や、好きなアイドルたちが楽しそう〜にやってるのを見て、どんなゲームなんだろうかと気になっても、まだ知らないでいる。

https://twitter.com/kasaku_men/status/1327218670141984768?s=21

24時間以上残ります

おはようございます。諭吉佳作/menです。

 


俺はちょくちょくInstagramの質問を募集できる機能を利用しています。

 


はじめのころは誰ぞがやってるのを見てへーそういうもんかねなんて思って、六つの質問を収めたスクリーンショットに、それぞれの質問に対応する短い文章を回答として書いて、ストーリーズに載せていた。

今はなぜか機能通りに、一つ一つの質問をとりあげて相手側に通知がいくような方法で回答をしている。普通逆だと思うんだけどね。慣れてきたからこそ、機能として想定されている方法とは違う方法を見つけて実践する、って方が自然なんですけど。

それでも最初も今も、質問募集の機能を利用することの目的、目的というとちょっとひんやりし過ぎている、意義、これも冷たいか、良さですね。質問募集の機能のどこに良さを感じているかというのは変わらなくて、その中の一つに、他人からの質問に答えることで自分のことをはっきりさせられるというのがある。自分のスタンスとかその理由とか。まあもちろんそれだけではないんだけど。

考えたことなかったようなことを、わざわざ一に立ち返って考えることになったりするのがありがたい。まあ俺はそういう提起が自分の中から生まれる頻度が高い方だとは思うんだけど、それでもたとえば最近「好きな寿司は何か」なんて答えたけど、普段は半分自動的みたいに食べたいもの食べてるってだけで、あんまり考えたことなかったりする。や、まあこれはちょっと無理やり言いました。好きな寿司を一に立ち帰って考えることはないです。

聞かれてもいないのに補足を長文でしたりするのも、もしかしたら質問者の方からしたら恐怖を感じるのかもしれない(もしここにいらしたら伝えます、いつもすみません)のだが、俺にとっては俺のことをゆっくり考える時間というか、そしてそれを他人の目に触れてもよいくらい具体的な文章にすることで、より自分の中に確かなものとして残る、そういう実感が得られるわけですね。やった!

 


ところでなんでこんな話をし始めたのかというと、Instagramでの自分の振る舞いとはてなブログでの自分の振る舞いがそこそこ異なっているということについて、さっき初めて考えたからです。

振る舞いというか、シンプルに文章の書き方です。自分は文章を書くのが好きで、そうでなきゃさっき言ったみたいな、書くことで考えをまとめるなんてことしないと思うんですけど。それにしても、Instagramでの文章ははてなブログでの文章とは大きく違っている。

こんな話をすればお気づきかもしれないが、今日の俺はちょっと違う。今ここで書いているのはInstagramのストーリーズで俺が書きそうな文体で書いたはてなブログです。自分としてはそのつもりです。けどわりと自信がない。

Instagramのストーリーズでの俺の文章ってのは、まず「ら」行や「い」を省いた言葉を使う。「けれど」は「けど」になるし「していない」は「してない」。全部が全部ではないけど、こういうのを結構使う。そういう省いた言葉が今の時代において間違った言葉使いとされるのかされないのかはよく議論になるところだがそれは置いておいて、少なくともはてなブログで書いているときの俺は、絶対に省かない。もうこれは決めてるから、わざとなんらかの効果を狙っているんでもない限りは使わないようにしている。はず。確認してないのでわからないですけど。あとは「〇〇と言った」が「〇〇って言った」になるのとかもよくやる。

敬体と常体が入り混じるのはどちらも同じかもしれない。はてなブログの方でもちょくちょくあると思う。これが結構ブログっぽくていいよななんて思ってるんですよね。

TwitterとかInstagramとかはてなブログとかもしくはどこかの雑誌に寄稿するとか、載る場所によって書く文章が違うなんて当然のことなんだけど、どこでそのスイッチが切り替わるのかということを考えるとわりと妙だと思う。考えてやっていることなのかそうでないのかもわからないが、どちらを書いている時が自然だとか楽だとかそういうのはないと思う。

ただひとつぼんやりと決め手になっている気がするのは、ブログの文章は範囲選択やコピペができる、つまり入力された文字がずっと入力された文字として存在し続けるのだが、Instagramのストーリーズの文章ってのは入力して完了した瞬間に絵の中に溶け込んでしまうから、文字の自覚が薄い気がする。質問への回答でしかないという程度の自覚なのかもな〜と今思った。そうだ、質問されてそれに答えるんだから、そもそも人間同士なわけだ。そこが一番大きいでしょうね、勝手にぶつぶつ言ってるブログとちょっと違うのは。

InstagramTwitterで書いてる時って、わざわざ「。」をつけるのが気持ち悪いときがあって、スペースを代わりにすることが多いんだよね さすがにここでそれをやっちゃうと読みづらすぎるからやめました やろうと思ったんですけど

こういう再現のことを俺は擬態って呼ぶことがあるのだが、俺はTwitterでの振る舞いが一番わかりやす擬態かもしれないです。擬態と言っても擬態だから嘘とかそれでも本当とかそういうことは問題じゃなくて、ただ、ただなんでしょうね。俺はずっと矛盾してる気がするけど矛盾を許してることに安心してると思います。なんの話してたっけね。

書いてるうちによくわかんなくなっちゃったのでまた考えたいですね。

 


ばいば〜い✋

2019/men

 カーーーッ!来るはずのない年が来てしまった!と何故か思わせる2020年だ。20が二つ重なっているという見た目のポップさと、大規模な催しを予定しているが故に何かと言えば目印にされてきたこととが、何か不自然な感じを与え、とにかく不確定な感じを醸している。

 かと思えば、実際2020年に生きてみるとなんてことはない。当然だ。なんてことはないなんてことはわかっていた。でも思っていた以上になんてことはない。まだ序盤だから、「なんてことがある」はずはないのだ。わかっていても、書類に日付を書いた時、カレンダーを見た時、あらゆるところで2020が今だと思い出すたび、奥歯が一つ増えたような違和感がある。「ニイゼロニイゼロ」?二千二十年だろうが!このなんともキャッチーな数字に、僕の中身は追いついているんでしょうか……。


 ↑と書いたのが年明けすぐで、今はもう2月も後半である。2020にまだ慣れていないどころか、2019年14月だと思っている。

 別に2020のせいで、ということはないが、上に記したときよりも世の中と私が混乱している。ような気がする。混乱というか、もうこれは個人的な考え方とかを全く抜きにして、単純に流行病が怖くて、連日テレビが現状と予防法を報じ、別にそれがいたずらに不安を煽るとかそういうのでもなく、ただただ「病気はなるべくしたくないねえ」という話だ。みんな基本的に病気はなるべくしたくないのである。健康が一番。


 ところで、昨年はかなり大変な振り返りをした。2018年中に投稿した音楽と出演したライブすべてについて、三記事に渡って感想を書いた。2019年についても軽く記しておこうと思うのだが、今回はとりあえずリリースについて書いておく。

 ただご存知の通り、わたしの今年の単独リリースは「プロトタイプ-11」のみである。リリースなんてない!これは事実だが、事実として観測する以上に追及することはせず、コラボ曲や提供曲を並べておくこととする。


______________

⚫︎2019.1.3

運動 - abelest + 諭吉佳作/men

https://soundcloud.com/maltine-record/undou

マルチネレコーズよりリリースされた abelest さんのEP、「健康」に収録された曲。(各種音楽配信サービスからも配信しています。)


⚫︎2019.1.19

プロトタイプ-11

https://soundcloud.com/yukichikasaku/p-11/s-mJ4H1

わたしにも読みがわからない、かわいいタイトルの曲。わたしこれ好き。


⚫︎2019.6.26

形而上学的、魔法 - でんぱ組.inc

https://youtu.be/zFAgG0HIvWo

オイ!どうしてわたしがでんぱ組.incさんに曲を……!?!?!?!?と、今でも余裕で驚けるのですが、どうですか?(どうですか?)

作詞作曲をわたしが担当させていただき、編曲は KanadeYUK さんが担当されています。

もちろんCDも売っているしMVもあるしもう、どこでも聴けます。


⚫︎2019.10.1

動く物の園 - abelest & 諭吉佳作/men

https://linkco.re/UFpUaFzg

マルチネレコーズ『CUBE』出演に向けてつくった、「健康」の続編的な曲。ばかでかい空間を感じます。映像もございます。


⚫︎2019.10.4

むげん・ (with 諭吉佳作/men) - 崎山蒼志

https://smej.lnk.to/zzAG6

崎山蒼志 さんと、詞曲ごちゃごちゃにつくった曲。編曲は、ベース以外の打ち込みはわたしで、崎山さんはギターを弾きつつベースの打ち込みをされています。

______________


 コラボや提供、新しいことを体験できた年だった。一人でこねこねやるのも楽しいのですが、他人とのやりとりが重要になってくる制作も本当に楽しいし、感動するタイミングが多いです。

 一人のことに関して言えば、2月からはライブに小銭やMacBook(ちなみにAirです)を導入(それまではPAの方にCDを渡していた)、そして10月あたりからはLogic Pro Xを使い始めるという大事件。それまで使っていたiPhoneGarageBandには大変お世話になったため、丁重に謝辞を述べ、そして今現在ではまったく触っていない。これがなかなか、本当に大事件である。

 「iPhoneGarageBandでつくっています」と声高に言い張るつもりもなかったが、もちろん事実だから尋ねられればそう答えたし、iPhoneで音楽をつくるその手軽さや現代的とも言えるスタイルから興味を持ってもらうことも多かった。実際、そういったテーマのテレビ番組にも取り上げてもらった。そのわたしが、普通にMacBookを使い始めることは、(これはある意味、自意識過剰であると言えるが)自分の価値を自ら手放すようなことかもしれないと思っていた。「もしかしてわたしは、現代の”手軽な音楽”の象徴なのか?」というところにまで思考が行ってしまったが、まあそんなはずはなく、そもそもわたしはそんな目印をつけてもらえるほど有名じゃない!有名になるぞ〜〜、俺って有名になりたいんだろうか!よくわからない。


今年もよろしくお願いします。もう2月22日よ🐱(って書いたら日付が変わってしまった。)

夢 in 2020.1.12 のメモ

 駅のような建物の便所の前にいた。尿意は明確に表現されることなく、しかし目的を持って便所を目指したのだろうという認識だけはあり、気がついたら便所の前にいた。

 便所は洗練された見た目だった。洒落た温室のような部屋が、三つ建っていた。ガラスか何かでできた直方体の壁に、これまたガラスか何かでできた屋根は、ドームのように丸かった。周りは、白いタイルの手洗い場で、センスのよい観葉植物が至る所に設置されている。白と緑が美しかった。わたしはその清潔感にとても好感が持てるなと思った。

 なぜかその後に気がついた。温室風の直方体の壁の、側面の四辺には、はっきりとした色合いのラインが入っている。玩具に使われるプラスチックのようなかちかちした素材が、尖った辺を一段厚くしている。結局尖っているから、安全のために角を覆うなどの目的があるのではなくて、単にデザインのためらしかった。

f:id:ykcksk_men:20200116214649j:image

 三つの部屋にはそれぞれ青、緑、赤のラインが入っているが、中身は全て同じであるようだった。ガラスの壁は、向こう側が見通せるほどに透明で、中にはいくつかの洋式便器が見える。個室すらないようだ。しかし不思議と、それを不快には思わなかった。全てがあまりにもデザイン的だったからかもしれない。実用とはとても結びつかない見た目だった。

f:id:ykcksk_men:20200116214713j:imagef:id:ykcksk_men:20200116215243j:image

 でもわたしが今この便所に求めているのは実用だったらしく、非常に困っていた。三つの部屋のうち、どれを利用すべきかわからなかったからだ。しかし、大体の予想はできた。公衆便所を表す有色のピクトグラムは赤と青の二色で構成されており、赤は女性用、青は男性用を表しているため(だなんてそんな証拠を持ち出さずとも世の常識として)、赤いラインが入っているのが女性用便所、青いラインが入っているのが男性用便所であるに違いなかった。では緑のラインは……?多目的トイレの進化形だ!

 わたしは嬉々として緑色のラインが入ったそれに飛び込みそうになった。わたしが知らないだけで、もうあるんだ!そう思いながら飛び込みそうになって、しかし、踏み止まった。敢えてここに入ったら、自分の立場と考えを表明するために緑の部屋を"わざわざ選んだ"ことになるのだろうか。そう思ったら、ついには青い部屋にも赤い部屋にも入ることができなかった。

f:id:ykcksk_men:20200116214739j:image

 

はかるな(今回は特に測られる種類の文章だと思うがはかるな)

2019.10.27の日記 渋谷駅

 銀色(本当に銀だっただろうか。何しろ気が動転していた)の髪と黒縁の眼鏡(本当にかけていただろうか。何しろ気が動転していた)、非常に垢抜けた風貌の、動画クリエイターを名乗る人に、渋谷駅で、「すみません」と声をかけられた。

 はじめ、その人が「すみません」と言っているのを見た時は「言われた」とは思わず、「誰かに何かを言っているな」という感じだった。まさかわたしに言っているとは思わなかったからだ。今考えると、もしかしたら、わたしに声をかけたのではなく、「すみません」と大きめの声で言ってみて、偶然立ち止まってくれた人を相手にしているのかもしれなかった。


「すみません」

「ナンパとかじゃないんですけど」

「ちょっと自己紹介してもいいですか」

「動画クリエイターの〇〇っていいます」

「お姉さんタイプだなと思って」

「素敵だなと」

「5年に一度くらいの出会いだと」

「学生ですか?」

「食事とか行けたらなと」

「下の名前教えてもらっても」

「また会いたいので」

「LINEだけ」


 東京ってのは、こういうのが普通にあるのか。渋谷駅で見ず知らずの人間にLINE交換を求める動画クリエイターの「タイプ」が俺であるはずはない。常習と見受けられるのに、もう少し信憑性のあることを言えないのだろうか。

 これについて行ったら待ち受けているのはなんなのか。スカウト詐欺?薬?高い壺?高い石のブレスレット?ただ知らない人に話しかけられるだけで大量の汗をかくわたしでも、そのくらい、ある程度の冷静さと、順当な自己評価を持っていた。

 それなのに、反面、声をかけられている間、わたしは自分のことを、白いボブカットの髪、赤いカラーコンタクトと赤系のアイメイクを施し、そして経済的に自立している、二十代後半の人間だと思った。洗練されたホワイト一色の服を着ていると思った。その体で話を聞いていた。話を聞きながら、どこかの端端でぶわあと頭の中と目の前がリセットされて、いや違う違う、俺は高校生だった、しかも髪の毛は焦げ茶色でちょっと伸びているし、目も赤くないし(メイクは赤いのでそこだけ合っている)、白い服も着ていない。そう思い直すのだった。

 わたしは悪意を持って迫ってきている人間(もしこれが実は本当に好意ありきのナンパだったとしたらわたしは心底感動するし喜ばしく思う)に対しても受け流すということができないらしく、おどおどするだけで、本当に小さな音量で「あ、や、いや……」と発する以外には声が出なかった。

 向こうには何個も言葉を話させたくせに、わたしはといえば、最後の最後に「地元じゃないので」「急いでいるので」の二言だけをやっとの思いで絞り出し、そそくさとその場から去った。

 そうして逃げ帰る間に、わたしの口は完全に曲がってしまった。にっこりしていた。なんとも言えない恥ずかしさに襲われていたのだ。早足で改札を抜けた。

 わたしは目的の電車に乗り込むと、すぐに母にLINEをした。もちろんたった今の経験を伝えるためだった。

 そうして一度冷静になって文章にしていると、都会では面白いことがあるものだなという気持ちと、こんなことは本当に馬鹿げているわという気持ちと、ガキだと舐められて悔しいという気持ちとで、心臓がどきどきした。汗にならない熱が風になって体から出てきた。

 あの瞬間、俺は馬鹿にされたのだ!悔しい!どうせ、このガキはきっと阿保だからありがちな言葉でちょっと煽てりゃ壺でも石でも買うだろって思われたんだ、ひどい!まったくひどい!

 一体何と返事をしたら効果(何の効果?)があったのだろうか。LINEを交換したらどうなったのか。何かうまい切り返しがあったのか。


 こんな、きっとよくあるエピソードを、二ヶ月も経った今わざわざ公開する。静岡県にいるからなのか子供だからなのかわからないが、今までには一度だって経験しなかったことだった。

 読み返してふと思った。この先もしも、道端ですれ違った相手を本当に好きになってしまった場合はどうすればよいのだろう。

 今回の人は嘘つきでも、もしかしたらわたし自身が誰かを引き止めたくなるかもしれないのだ。そう考えると、途端に真剣な顔をしてしまう。どうしたらその一瞬で、信憑性のある愛の告白ができるのだろうか。たぶん無理だ……

f:id:ykcksk_men:20191227212535j:image