諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

諭吉佳作/menの本名は?調べてみました

 私は鈴木みゆという名前を本名に持っています。

 何故このタイミングで急に本名を書いてしまうのか。(これでもしも、本当はみんな知っていたが気を使って黙っていた、とかだったら怖い。)

 もちろん私は私を養ってくださっている大人にきちんと相談し、自分の思いを熱く(熱く?)伝えた。その上で書いた。

 熱い思いの内容を以下に。

 


 「鈴木みゆ」の名を、既に知っていた人がいるだろう。

 私が初めてライブを行ったのは「神谷宥希枝の独立宣言 ザ☆オーディションvol.10」というオーディション(vol.8のグランプリストは崎山蒼志 先生)の本選があった2018年3月であると設定している。

 私はそのオーディションに「鈴木みゆ」の名で参加した。それほど覚悟を持って参加したわけではなかったのに、一丁前に新しい名前をつけてしまうなんてことが恥ずかしいと感じられたからだった(このときの自分は名前に対しての考え方が今とは違う)。

 だからまず、そのオーディションを見ていた人は当然、私が鈴木であることを知っている。加えて、その話を又聞きした人や、その時期について残っている僅かな情報を掻き集めた人、掻き集めた人が書いたまとめ記事を読んだ人などは、私の名前を一つ多く知っていたということになる。

 なんてそれほど大仰なものの書き方をしなくてもよいのだが、わたしにとって今回のことは、わりと重大な決断である。

 なんと言っても、自分に諭吉の名をつけてからの私は、徹底的に本名を隠すよう努めてきた。何故知られたくなかったのかは今となってははっきりしない。はっきりしないくせに、その考えはどんどん強くなり、私の発想を偏らせた。本名を知られる可能性があるが故に、活動のきっかけ的な前述のオーディションについても、なるべく発言を避けるほどだった。

 しかし私は以前、「掻き集めた人が書いたまとめ記事」を見つけた。その記事には、しっかりとオーディションの情報と私の本名が記されていた。私はその記事に感心した。他の記事であれば私の本名なんてものは、「諭吉佳作/menは本名ではないそうです。本名が気になりますね〜」で諦められている部分だった。

 同時に、まずいなあとも思った。その、誰が書いたのかわからない、「調べてみました!」的な記事がどれだけの人間に読まれるのかは謎だが、インターネットの海に存在している以上、いつか誰かは必ず目にする。

 なぜ誰も望んでいないにもかかわらず(どちらかと言えば私自身も、わざわざ隠されていた名が急に明かされると興醒めすると思う)私が本名を書いてしまうのかと言うと、「ばれつつあるがまだ完全にはばれていない今の段階が、間抜けでない自白(別に罪を隠していたわけではないがわたしにとってはそのくらい大きい)をする最後のチャンスだから」である。

 今が間抜けでない自白をする最後のチャンスなのはわかるとして、そもそもなぜ自白が必要なのか。

 必要と判断した理由はいくつかあるが、どれもつながっていて、ひとつひとつを切り離しづらいから、雑多なままに並べていく。

 まず、外側から徐々にばれていって、「諭吉さん、本名隠してただろうに、ばれちゃったんだね(笑)詰めが甘いから(笑)いやいや大丈夫大丈夫、本名くらい、なんてことないよ(笑)」と思われたくなかったからだ。もちろん、周りの人間が皆一様に、こんな風に私を哀れむはわからない。

 上記のようなことを恐れているのだと他人に相談したら、そんなに細かいことを考える人はいないのでは、わざわざ自分から明かすことはないのでは、と諭された。めちゃくちゃごもっともだ。

 しかし何より、この時、一番に私を哀れむのは私自身だ。流出のような構図で本名が明らかになるのは、私にとって、好ましくなかった。意図しない形で本名がバレたとき、私は、「鈴木みゆという名はバレたくないものだった」という認識を確固たるものにしてしまう。

 逆のことも言える。もし本名がバレることがなかったとしても、私が本名を意図的に隠し続ける限りは「私にとって私の本名は人目から隠したいものである」という認識から逃れられないのだ。これはわたしが顔について考えていたときにも同じような結論に至った。

 本名を隠そうとすることこそが、自分を本名によって苛ませる理由の一つになっていた。本名のことを考えたくないから本名を隠したつもりだったのにね!😖残念!😢

 


 とにかく、私は私のために、本名を隠すのをやめるということだ。

 本名なんて、隠す隠さないで悩むほど大きなことではない!今晒してしまえば、今後、ばれたくないと思うこともないし、どうでもよくなる!本名なんか、そんなに重きを置くような情報でもないのだ!……と自分自身が納得するためだけに、長い文章を書いている(本当に長いな。ここからも相当長いです)。

 無駄と思われるかも知れないが、私は私自身が納得するために時間を使っているのだ!それで実際にすんなり納得できるかどうかは別にして、「ちゃんと納得しています」というポーズを取り、次に、「ちゃんと納得していますというポーズを他人に見せることができます」というポーズをも取ることが、私にとって重要だ!

 (今思ったんですけど、これはプライドの高い人間の発想なのかもしれん〜🥺

 そういえば、昔、プライドが高い/低いという話をしたことがあった。小学2、3年生の頃だったと思う。大抵小学校低学年生の頃に「土下座」を通りますよね。クラス内での「土下座」の流行ありますよね。

 「私はプライドが高いから土下座などできません」と言う人の気持ちが全くわからず、「なんでだよ、土下座くらいできるだろ、俺は土下座くらいいくらでもしてやるよ〜」と思っていた。そのときの私はその感覚がつまりどういうことなのか説明できずに「自分はプライドが低いのだな」で片付けていた。(小学校低学年生はプライドの有無を測る場合大抵「土下座」を引き合いに出します。もうこれは決まっています。)

 しかし、それは、要は、「自分はこの高いプライドに見合う人間だ、と自負しているなら、たった一回の土下座ごときで自分の立場が揺らぐと考えるわけないだろ。むしろ土下座を軽々しく、余裕でぶっかましてこそ、プライドが高く保たれるだろうが!土下座なんていう心がなくてもできる動作に自分のプライド預けてんじゃねえよ」という馬鹿みたいに高いプライドの表れだったんだな、今思うと😢やば😖話戻そ🥺)

 


 昔から、名前をたくさん持つことに憧れがあった。それは必ずしも本名である必要はなかった。ペンネームやハンドルネームを考えては、いつかのためにと、名前のストックをしていた。

 自分で自分の名前をつけられることが、喜ばしかった。自分の名前を自分でつけたいという欲求と、自分をたくさん所有していたいという欲求(については2019年9月6日発売の 文學界十月号 で書いています。これをこうして文章にしたのは自分の考えと心を安定させていく上でとても重要だったと感じています。http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai1910.htm#bk-purchase)によるものだっただろうか。そういう場で、ほかの名前に比べて本名が特別重要になることはなかった。

 だからこそ今回、私は、現段階で二つも晒している名前の中にであれば、本名を混ぜてやれると思った。あくまでも、私が持っている複数の名前の中に平等な重さで存在することを実感するには今がちょうどよいと思った。

 これまでは、どれだけ諭吉が頑張ったとしても結局のところ本当の自分(そもそも本当の自分ってなんやねんなという話でもある)は戸籍上の名前である鈴木のところにしか預けられないと思っていた(この預けるとか預けないとかの話も文學界でしました)。しかしどれも私が平等に欲している名前で、全部好きなように使ってよいのだ。土下座にプライドを預けるのも本名に大事なものを預けるのもやめたということだ。

 マジな話、学校のプリントに記名する時も、ちょくちょく「諭」って書きそうになるし、あと、この間学校で「諭吉佳作/menさんですか!?」って言われて失神するかと思ったし、そのくせTwitterにミユさんが現れると変な汗かいてくるし、世のジロウさんのことは同じ名前ですね!くらいに思っている節もあり、もう気にするだけ馬鹿らしいところまで入り込んできているなという感覚がある。

 ひとつだけ心配なのは、諭吉をやめたくなった時どうなるかなということだ。

 


 自己満足前提ではあるが、実際のところを言えば、自分以外の人がこの文章を読んでくれなければ効果が大きくないのは当然だ。しかし私が、この文章を読んだ人からの特定の反応を期待することはない。重複するが、やはり、わざわざ自分から本名を明かした文章が誰かの目に触れるという事実が大切なのだ。

 特定の反応を期待することはないと書いたが、特定の反応を嫌うことはあります。例えば、私の本名を私の弱点のように扱ってくる人がいたとすれば、私はその人のことを無視します。「諭吉」に向かって鈴木の名前で呼んできたらそれもやっぱり無視するかもしれない。

 


 散々「隠さなければ」「バレたくない」などと書かれてきた「鈴木みゆ」という名前、「名付け親に対して失礼だ」とか「この世にいらっしゃるスズキミユさんに失礼だ」とか思われたらどうしようと不安になったので念のため書いておきます。

 私が名前を隠していたのは「鈴木みゆ」という名前が嫌だったから知られたくなかったのではなくて、自分の名前を知られたくなかったのが理由です。自分がどんな名前であろうが同じだったと思います。

 では私が「鈴木みゆ」という名を気に入っているのかと言うと……「鈴木」と言うのはあまりにもたくさんいるせいで、正直、全然好きじゃない。「鈴の木」だなんて、本来とても美しい言葉のはずなのに、「たくさんいる、見本のような苗字である」という先入観がその先を考えさせない。鈴木同士で話をすれば、「鈴木って結構嫌だよね」という話題になることもある。

 でも「だから隠したのか」と聞かれれば、そんなはずはないと断言できる。

 


 余談ですが(わざわざ注釈を入れるには今更過ぎる)。

 ある音楽家の方に本名を教えた時、「諭吉さんの苗字が鈴木なのは意外だ。陰陽師とかかと思ってた」と言われたことがある。「陰陽師」という苗字はないのに、「オンミョウジ」という語の中に「ミョウジ」が入っているのは、何かよくわからないけど感じがよい。私が陰陽師っぽいか否かは私には判断できないけれど。

 

 

 

いかがでしたか?

諭吉佳作/menさんの今後の活動も気になりますね⭐︎

注目していきましょう!