諭吉佳作/menたち

書きたいことを書きたいように書くかもしれないし書かないかもしれません

(マジ)今までで一番マジ

 まずはじめに、今ここで書くことは今の自分の考えでしかなくて、一年後、二年後、なんなら数分後の自分でさえ、同じ考えを持っているとは限らないことを示しておく。

 つぎに、いつものことだが、思ったことを思った順に、というのは流石に嘘で、もう少し気にしているがほとんどそんなテンションで書いているから、ぐちゃぐちゃだと思う。俺の心はいつもぐちゃぐちゃだから、まあそんなものかもしれない。

 あとすごく長い。めちゃめちゃ長い。なのに詩的な要素とか、ストーリー性とか面白みがひとつもなく、ただ考えを書いたまでで、何回も同じことを言っており、それに気づいているのに直す気も起こらず投稿した。でも読んでくれたらありがたいと思う。もしかしたらのちのち書き直すかもしれない。

 


 私は今、自分の中では一応、ノンバイナリーという立場をとっているつもりだ。女でも男でもあるような女でも男でもないような何でもないような感じがしている。そんな雰囲気をTwitterInstagramで小出しにしてきた。

 承知してほしいという思いはありつつも、今自分をいろいろな形で認識しているフォロワーらに「自分をこう扱ってくれ」と強く訴えたいわけではなかったし、強く訴えるほどの自信もなかったから(これらは今も変わらない)、小出しに、言うなれば匂わせのようなことをしてきた。

 わざわざこんなことを書くまで、フォロワーらがどのくらい私の匂わせを意識していたのかは、こちらにはわからないところだ。私としてはそんなつもりもなかったが、もしかしたら傍目にはごく穏やかな香りで、とても知ってほしそうには見えていなかったかもしれない。私からすれば毎回の匂わせは一世一代の、と意気込んでやっていることだったから、決してそんなつもりはなかったけれど。

 表明する上ではわかりやすいからノンバイナリーという言葉を使っているものの、それが自分にとって適切なのかはよくわからない。あえて言葉を当てはめるなら一番近いのだろうが、ノンバイナリーという言葉を自分事であるとも、それほど感じない。そもそもこの言葉自体ごく限定的な意味で使われるわけでもなく、あまり親近感を感じる言葉ではないのだろうか。

 もっと適する言葉を探そうにも、そもそも自分がどういう状態なのか、はっきりとはわかっていない。そういうふらふらした自分が、他人に説明をするときに使う言葉として「ノンバイナリー」がそこそこ便利ということだ。でもそれより完璧なカテゴリを求めようとも思わない。ただまあそうすると、自分のことを話すには難しいなといつもいつも考え込んでいる。

 今回は文字数のことも考えて、ノンバイナリーという言葉を使う。

 


 はっきり言って、私の体は、なんて言うのが正しいのかわからないが、女性の体だ。小学校、中学校生活は女性のつもりで送ってきた。

 その過程で、いつだったか、あー自分って好きになるの異性だけじゃないかもなあと思ったタイミングはあったのだが、性的指向は自分の性自認を疑う理由にはならないから、そのときは改めて考えたりはしなかった。

 今考えてみるとその当時も、他人や社会からいわゆる女性性を求められはしても、自発的に女でありたいと思ったことはなかったような気がする。

 もともと自分は、いわゆる女性的と形容されるタイプではなかったとも思う。それでも女性は女性らしい方がよいというのはよく聞いていた話で、それにそぐわない自分は、自虐の対象でもあった。

 諭吉の名でTwitterアカウントを持ってからも、「もうすぐJKになるのに」などと投稿したことがある。それは若い女性である自分が(いわゆる)若い女性らしくないことに対する自虐だ。それにプラスして、平然と自虐をすることによって新しい立ち位置を築くという、安心するための行為だった。それは逆に言えば、自分を、女として生きる道に縛りつけることにもなる行いだったと思う。

 無論、「いわゆる女性的」でないことが女性でないことの根拠にはならないから、当時の自分が自分の性別を疑わなかったことが不自然かというとそうではない。ただ、選択肢を知っていたら、今の自分のような考え方になるのはもう少し早かったかもしれないと思う。必ずしも早ければよいとは思わないが。

 女性として生きてはいたけれど、なんらかの説明的な要素の中にも、自分の気持ちの中にも、自分が女である証拠を見つけたことはなかったように思える。けれどそれこそが自認の純粋な証拠であると捉えていた。(今でも、性自認にはそういった側面はあるように思える。理由をもって性別を判断するわけではないという側面。正直よくわからないけれど……。)

 ただ、そのときの私が女性だったのは、自分が女性である証拠は見つけられなかったけれど、かと言って、男性である証拠が見つかるわけでもなかったからだ。当時の私にとって、性別は女か男かしかなかった。

 ざっくりしているけれど、それほど疑問を持たなかった。私は女か男か以外の選択肢(選択したくてするばかりではないし、選択というより認識かもしれない)があることすら知らなかったのだから、疑問を持ちようもなかった。自虐こそすれど、自分が女性であること自体は、まあそういうものなのだろうと思っていた。(実際、人によって、そういうこともあるだろうとも思う。私もこの先はまだわからないし!)

 タイミングも、経緯も、あまりはっきりとは覚えていないが、やがて私は自分のことを、女でも男でもあるような、女でも男でもないような気がし始める。

 なにかきっかけがあったとしたら、自分の性的指向について(は割と普段からぐちぐち考えることが多かった)考えるうちに、性別にありうる形、つまり選択肢のことも、自然に知ることになっただけの話じゃないかと思う。

 それまで知らなかっただけで、自分の状態を心に収める上での解釈のやり方はたくさんあった。

 それを知った瞬間から私のスタンスが変わったということはなくて、はじめは知識として、頭の中にあり続けた。知識から実感に変わるきっかけ、やっぱりここの経緯をどうも覚えていないけれど、自分が性別の証拠を見つけられなかったことは、そのまま、見つけられなかったまま、心にしまえばよいのかもしれないと思うようになった。

 無理にひとつを選ばなくてもよいことを、もっと言えば、生活の中で、理由もしっくりくる感覚もなく女を選ばされることへの不安を、感じるようになった。

 今の私は男でも女でもあるのかもしれないし、男や女ではない何かなのかもしれないし、男でも女でも他の何かでもないのかもしれないと思う。そこを掘り下げる気になったりならなかったりする。この通り、結局あまりはっきりしていないのだが、はっきりしなくても大丈夫だろうと思うようになった。

 この先、私は女だ、私は男だ、と言い切りたくなることがあるかもしれないけれど、今無理して決めないことで、いつでもどれでも選べたらいいなと思う。

 そう思うようになってからは、言動も変わったと思う。自分自身の振る舞い以外にも、たとえば取材記事などで、自分を指す三人称は名前にしてもらうようになったりした。

 というようなのが、ざっくりした流れだ。今の状態を知ってほしいだけならこれを書く必要はなかったのだが、ちょっと、整理と記録をしてみました。

 


 女性性や男性性ということに関して、私はとても無知だ。

 さきほども書いたが、小学校、中学校生活は完全に女性のつもりで送ってきた。となれば、(少なくとも表向きが)女性同士のコミュニティに属する時間の方が長くなる。だから、今の自分の持つさまざまなことに対する考え方は、女性同士のコミュニティで育ってきた人と一致しやすいのかもしれないなと思う。つまり私には社会的な女性性が多くあるということなのかもしれないが、それってなんだろうとも思う。よくわかっていない。

 きっと自分の中には女性性も男性性も存在していて、しかし女性性や男性性は何がもとになっているのかわからず、社会的な定義以外に何かあるのか、社会的なものでしかないのかもよくわからない。

 女性にも男性にも女性性と男性性の両方があっておかしいことはなくて、けれどそうしたら女性性が女性性と呼ばれる理由や男性性が男性性と呼ばれる理由も私は知らないのだと気づいて、本当に知らないことばっかりだ。勉強しないといけない。

 


 正直、私はいつもいつもこういうことばかり考えている。他人から見られるたびに考え直して、女性として扱われるたびに結局のところ自分はなんなんだろう、そしてどういう立場を取るべきなんだろうと、そんなことばかり考えている。良くも悪くもだ。新しい知識も気持ちもないまま一人で考えまくったところで、何も変わらないはずだが。

 (ありがたいことに、)自分からは把握し得ない他者からも自分の存在を認識されることが増えてからは、さらによく考えるようになった。

 私はいろんな人がいろんなふうに私をみて、私のことを勝手に想像したり解釈したりしてくれたらよいと思っている。なにが本当なのかは関係なく、他人の思う私の像がいろんなふうに広がれば嬉しいと思う。

 だからたまに混乱する。別に、これまで通り自分が女性だと思われていたところで、大抵の場所では問題が起こらないようにも思えるからだ。

 たとえば、私を女性として扱う他者が私に対し、異常に女性性を求めたり、「女性たるもの」と行動を制限したとすればそれは、私が女性であるかそうでないかの枠を超えた問題であり、実際には女性でないのならば解決する、というものでもない。しかし、もしも単に性別に関して勘違いが起こっていて、ただ自分を女性と呼ばれたとしてそれによって、私は何を不安に思うのだろうか。

 たしかに不安に思っているのだ。けれど、いったい何が不安なのか、わからない。真偽関係なく、いかようにも見られたいのではなかったのか?

 逆に、「いかようにも見られたい」からこそ、女性であることを不安に思っているのかもしれないと思うこともある。それこそ、真偽関係なくいかようにも見られたいからこそ、他者が私をいろいろなふうに見るためにその選択肢を提案しているだけで、真には女なのかも……と思うことがある。これについては今も考えている。よくわからないと思う。けれど、先天的か後天的かはともかく、自分の性別がひとつに決まっていることにしっくりこない気持ちを認識してしまったわけで、漠然と女性だった頃に戻ることはなかった。戻りたいと思わなかった。

 今回こんな文章を書いてみてはいるものの、今後私が私を女性扱いする人に出会っても、わざわざ「私はノンバイナリーなんです」とは言わないんじゃないかと思う。私を女性と呼ぶツイートを見つけては訂正して回らなければならないほどの緊急性も、私は感じていないと思う。けれど、私はこれを書くことをずっと考えていた。結果、書いたのは今だったけれど、ずっと考えていた。

 ではどうして書きたかったのか。はじめに書いた通り、承知してほしかったのかもしれない。理解するとか認める(変な言い方だ)とかは一旦置いておいて、とりあえず承知をしてほしいと思った。じゃあどうして承知してほしいんだろう。いかようにも見られたいんじゃなかったのか。

 フォロワーのみんなが私の性別をどう認識しているかなんて、アンケートを取ったわけでもないから、わからない。きっと色々だろう。以前から察していた人も、これを読んではじめて知った人もいるだろう。諭吉の性別なんか考えたこともねえという人も、考えたこともないしこれからも考えないという人もいるかもしれない。

 私を取り巻くすべての人がこの文章を読むわけじゃないこともわかっている。だからきっとこれからも、一部の人は私をノンバイナリーだと思うだろうし、一部の人は私を女だと思うかもしれない。

 ……と、書いていて今、まあそれはそれでいいのか、と思った。知ってほしい気持ちはある。でも、とりあえず文章にしてしまいたかっただけなのかもしれない。それですっきりしたかったわけだ。私は何事も文章にしないとダメなタイプだし。そのあとのことはそのあと考える。そういうことらしい。なんだこのまとめ方は。

 だからとりあえずこれをしたためて、それでそのあと女性と呼ばれたとして、まあそれはそれなのかもしれない。けれどそのとき、私の気持ちは、何も書いていなかった頃とは違う。ひとつは、その場で訂正しないことで、嘘をついている気持ちになるかもしれない。ひとつは、既に気持ちを文章として心に収めている安心感を思い出すかもしれない。また、良くも悪くもだ。

 


 それがどこから出てきたものなのかは置いておいて、世の中には女らしさや男らしさといった認識が存在している。そういった基準で見たとき、自分にはどちらの要素が多いのか、それは自分ではわからない。しかし少なくとも自分は、十年以上を女として生活してきたし、今現在も女の体を持っている。その事実はしばしば私を不安にさせる。

 女の体は、他人が私を女性と判断する理由になり得るし、そして、私自身がフラットでいたいと願う気持ちに水を差す。

 すべての行動に女の体を使わなければいけない分、仕草や口調など、まだ簡単に変えられそうな部分をどうにかしてみようと思うことがある。体の構造という点で既に女の方に振れている針をゼロに戻すために、あえて世間的に男らしいとされている要素を追加してみようと思うことがある。けれどそのときにまた、不安になる。

 自分は男性性という概念がどこから出てきたものなのか、実際にはどう存在すべきものなのかを知らないのに、どうしてそれを利用できるのか。他人から思い通りに認識されるためだったら、普段の自分が不安に思う概念も利用するのか。いつもの私だったら、女性らしさや男性らしさのことをなるべく考えないようにしているのに。

 ノンバイナリーと言いつつそこを比べることがおかしな話だとは思うけれど、今の自分は女性扱いされるよりは男性扱いされる方が安心する。そうすることで体がゼロになると思っているのだろう。

 あっだめだ面倒くさい……この辺はまた今度考えます。

 間違った知識や考えは知りたいので、ぜひおしえてください。

 


 ということで、まあ、女性扱いしても大丈夫だと思います。実際私の中にいわゆる女性性は存在しているのだろうし、女性扱いされてなにか事件が起こるわけではありません。男性扱いも同様です。私のことをどっちでもありどっちでもないというふうに認識する方はそのままそうしてくれた方が、こちらはしっくりかもしれません。

 性別のことに限らず、この世の全員は、自分が他人からどう認識されるかを選べません。それをポジティブに捉えたのが私のよく言う「いかようにも見られたい」という考え方で、本当に、いかようにも見られたいと思っています。先ほども書きましたが、性別についてもそうなのだと思います。書いているうちに、上記で悩んでいたことについて今のところの答えが出た気がするので以下に記します。

 性別についての「いかようにも見られたい」の「いかよう」とは、真偽関係なくあり得るすべての性別で見られたいということです。しかしこれまでの私の性別の見られ方は、「ノンバイナリー」か「女」かの二択であったと予想します。(便宜上こう書きましたが、ノンバイナリーを「一択」と数えるのは適切でないと思います。)私の匂わせを意識していた人の目には前者、私の以前までの生き方(と言っても「以前」はそこそこ遡るので、最近私を知った人はここを認識しないと思います)や身体的特徴という事実から考えていた人の目には後者で映っていたと思います。(他人の性別はその人が自称しない限り判断できないと考えて、私の性別を判断していなかった人もいたと思います。)

 「いかようにも見られたい」から今回の文章を書いたという側面はたしかにありました。体が女性であることを根拠に女性と判断されてきたことに関して、それ以外の見方を提案をしようとしたのだと思います。「ノンバイナリー」や「女性」というのは現在や過去における単なる事実で、「いかようにも見られる」にはそれ以外も含まれなければなりません。そこに事実は関係ありません。

 


 私は、結局のところ、ノンバイナリーだと思ってもらわなくてもよいかもしれないと感じているのだと思います。気持ちを知ってほしいというのは、必ずしも事実を知ってほしいということではありません。ただ、私の中の女性以外の可能性を知らしめたかったのです。それは事実存在しているし、もしそうでなくても、その方がきっと楽になると思いました。

 正直、この文章の中だけでも、矛盾が書いてあるんじゃないかと思います。書きながらわけがわからなくなったので、きっとおかしなところがあると思います。とにかく、私は自分のことを女でも男でもあるし女でも男でもないし何でもないし全部だと認識します。私が私をそう認識するのと同じように、みんなも私を好きに認識するものなんだろうと思います。

 ただ、可能性についてみんなで考えていたいと思いました。だから書いたんだと思います。

 


2021年5月24日